第二章 彼女の知らない彼女 〜第一節〜




 そのクレープには味がなかった。

 厳密にいえば、クレープ生地の味はする。ほんのり甘い。

 ただ、いっさい具が入っていない。美咲が次々に焼いていく薄い生地を、重信しげのぶはただ黙々と食べ続けている。

「――どんな感じ?」

「具のないクレープの味がする」

「じゃなくて!」

 額に浮いた汗をぬぐい、アイスティーで水分補給をしていた美咲みさきは、必要最低限の報告しかしない重信を軽く睨んだ。

「生地の味は藤原ふじわらちゃんが調整してるからおいしいのは判ってるの! 問題はちゃんと薄く焼けてるかってことで」

「……充分に薄いと思うが」

 大きな丸皿の上で急速に熱を失っていくクレープ生地を見やり、重信は首を傾げた。実際、ホットケーキミックスで作ったにしてはかなり薄く焼けていると思う。またあらたに一枚掴んで丸めてもぐもぐと頬張り、重信はアイスティーのグラスに手を伸ばした。

「確かにこれは紅茶やコーヒーが欲しくなるな」

「クレープってそうやって食べるものじゃないんだけど……」

「きょうだけで何枚焼くつもりか知らないが、そのすべてにクリームを包んで食べていたら、さすがのおれも太ると思うが」

「それはそうなんだけど、具を入れてちゃんと包めるくらいに薄く、でも破れないくらいの厚さに焼くっていう練習だから、これ」

「要するに具を包んでも問題ないかどうかもチェックする必要があるわけか」

「……のぶくん、何のために隣にホイップとジャムがあると思ってたの?」

「きみが食べる時に使うのかと」

「そりゃあわたしも使うけど! 使うけどね!」

 残暑厳しい休日の昼下がり、ホットプレートの前で長時間の作業を続けていた美咲は、自分で焼いた生地にホイップクリームと缶詰のみかんを大量に包み、むしゃむしゃと一気にたいらげた。

 先日の放課後の話し合いでまとめた素案は、ほかのクラスメイトたちから特に反対されることもなく、すんなりと受け入れられた。文化祭という一大イベントに際しても、やはり温度差はあるもので、夏帆かほのように人一倍の熱量を見せる生徒もいれば、指示されたことはこなすものの、そこまで積極的にはなれないという生徒や、少数だが明らかに非協力的な態度を取る生徒もいる。ただ、クラスの大半が前向きな姿勢を見せてくれたのは、担任はもちろん、やる気のある夏帆や美咲にとってはさいわいといえただろう。

田宮たみやくん」

 相変わらずホイップを包まず生地だけをもしゃもしゃ食べながら、重信はふと思ったことを口にした。

「――なぜきみはクレープ係になったんだ? ワッフル係が一番楽に見えるんだが」

「楽だからこっちに回ってこなかったんだよ。最悪、ワッフル焼くのは男子にもできるでしょ?」

 確かに、ワッフルは半固形の生地をワッフルメーカーにはさんであとは機械任せにできるぶん、ふだんいっさいの料理をしない男子生徒でもどうにかなる。逆にクレープは、薄く伸ばしたりひっくり返したり、焦げないように綺麗に焼くためにそれなりの技術を必要とするのだろう。だから、美咲のように料理が得意な女子がクレープ係に割り振られたということらしい。

 ホットプレートの表面を綺麗にしている美咲に、重信はまた質問を投げかけた。

「きょうの田宮家の夕食はクレープなのか? それを全部焼くとなると、かなりの量になると思うが」

「え、練習用だよ」

「まだ焼くのか?」

 重信が食べたかぎりでは、美咲が焼くクレープには特に問題がないように思える。

「同じような薄さで安定して焼けるようになったのに、これ以上さらに練習とは思えないんだが――」

「うん、わたしはね。もうコツを掴んだ感じするし。あとはのぶくん用」

「おれ用?」

「うん」

「待ってくれ、おれもクレープ係なのか?」

「そうだよ。のぶくんは器用だからわたしが教えればできるはずだって――」

「誰がそんなことをいったんだ?」

「わたしが夏帆ちゃんに」

 しれっとして答える美咲。重信はこめかみを押さえ、静かな溜息とともに呟いた。

「……初耳なんだが」

「ゆうべ夏帆ちゃんと話してた時に、ひとりくらい男子で手伝いできる子がいたほうがいいって話になって。――ほら、もう判るでしょ? まだ暑いこの時期に、ホットプレートの前でずっと作業することがいかにきついかって?」

 もはや九月のなかばをすぎているというのに、このキッチンには冷房が入っている。加えて美咲はノースリーブのワンピースにエプロンという恰好で、それでも汗だくになって作業をしていた。水無瀬祭の当日、教室内で複数のホットプレートをフル稼働させた時に、ここよりもさらに過酷な環境に耐えなければならない可能性も出てくるかもしれない。

「その点、のぶくんなら大丈夫かなって」

「一応聞くが……なぜそう思うんだ?」

「いや、だってのぶくん、異世界帰りだし――」

「確かにおれはいくつも異世界を渡り歩いてきたが、クレープ職人だったことはないぞ。そもそもきみは、おれが異世界での経験をもとに何か話すと、すぐに異世界マウントがどうのとネガティブな返しをしてくるくせに、こういう時だけはポジティブに受け止めるんだな」

「もちろん夏帆ちゃんたちにはいってないよ?」

「当たり前だ。きみが正気を疑われるぞ」

「まあ、クレープ職人うんぬんは冗談だとしても、何かのぶくん、何でもこなしそうなイメージあるでしょ」

「何だそれは?」

「わたしの中のイメージではそうなんだよね」

 にこやかな微笑みとともに、美咲はシリコン製のフライ返しをカウンター越しに重信のほうに差し出してきた。

「…………」

「プレートの温度は二〇〇度、生地はそのおたまの印がついてるところまでね。それで統一してるから」

「……思っていたより水っぽい生地だな」

 どうやら自分に拒否権はないらしいと察した重信は、素直にクレープ焼きの特訓に入った。

「――ねえのぶくん」

「何だ?」

「結局、高梨たかなしさんてどうなったのかな?」

「――――」

 試作品を二枚焼いたところで唐突に美咲が投げ込んできた爆弾により、三枚目のクレープは円形ではなく不気味なアメーバ状に広がってしまった。

 ホットプレートをじっと睨んでいた重信は顔を上げ、フライ返しを置いて美咲に向き直った。

「……戸隠とがくしさんが誰かに人捜しを頼む時、そのへんの探偵を雇うとは思えないが、少なくとも、その調査能力のようなものは、それこそそのへんの探偵レベルではないと思う。そういう人手を使って捜して、さらに警察が公開捜査まで始めて、それでもいまだに何ひとつ情報が出てこないというのは、たぶんそういうことなんだろう」

「……もう死んじゃってるってこと?」

「ありていにいえば」

 実際には、霧華きりかたちは高梨まひろの行方など捜してはいない。彼女がすでに故人であることは、重信や霧華たちがその目で確認しているし、その遺体も、霧華の指示ですでに山内やまうちが処分している。

 ただ、そのことを知ってはいても、重信は美咲にその事実を打ち明けるつもりはなかったし、霧華たちにもいわないように口止めをしている。まひろの死について語れば、重信が彼女を殺したことまで知られる可能性が出てくるからである。

 厳密にいえば、重信が殺したのはまひろ本人ではなく、まひろの肉体を乗っ取ったエローダーである。しかし、理屈ではそうと判っていても、クラスメイトの姿をした敵を重信が躊躇なく斬殺したという事実は、美咲に、重信に対する畏怖を植えつけるかもしれない。重信が何よりも恐れているのはそのことだった。

 重信には、美咲に真実を伝えられない後ろめたさはない。まひろの姿をした敵を殺したことへの罪悪感もない。今の重信が唯一恐れているのは、自分が美咲を恐れさせ、彼女に拒絶されることなのである。

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