第一章 浮ついた季節 〜第六節〜

「――どうなんです?」

 すみれの頬をひたひたと軽く叩き、智恵理は低い声で尋ねた。

「板倉先生と“機構”の話し合いはどこまで進んでるんです?」

「そ、そこはわたしにもよく判らなくて――」

「判らないってことはないでしょ? だって先輩、それじゃ何のための秘書なんです? お嬢さまの秘書をやってるんですよね?」

「で、でも、板倉先生がいらっしゃる時には、だいたいはお嬢さまと大旦那さまと、三人だけで話し合われてるから――」

「何を話し合ってるか、判らないんですか? あとから聞けないの?」

「わたしたちにいうべきことは、お、教えてくださるけど、そうでないことまでは……」

「……もしかして先輩、意外に信頼されてないんですか?」

 自分を見下ろす智恵理の瞳に侮蔑の色がともったような気がして、すみれはついかっとなってしまった。少し前、同じような話題で重信と葉月の間で口論があったことを聞いていたせいもあるのかもしれない。

「そっ、そういうのじゃないの!」

 すみれはいきおいよく身を起こし、智恵理を至近距離から睨みつけた。

「――わたしたちは、いつエローダーの標的になるか判らないの! だから、重要な情報を知っているメンバーの数は可能なかぎり少なくしておくべきだって、そういうルールなの! それは敵に捕まった時のリスクを考えてのことだって、前にもいったはずだけど!?」

「……そう怒らないでくださいよ、先輩」

 智恵理は目を細め、すみれの首に手を回して抱きついた。頭に巻いていたタオルがほどかれ、智恵理の手が無遠慮にすみれの髪をまさぐり始める。

「……わたしがこういう冗談をよくいうって判ってるはずですよね、先輩?」

「ちぇりちゃん――」

「忙しくてちょっと苛ついただけなんです。ホントは先輩のこと、すごく頼りにしてるんですから。……機嫌直して。ね?」

「…………」

 さっきまでの硬質な声色から一転、智恵理は甘ったるい声でささやきながら、口紅を塗ったばかりの唇を何度もすみれの頬に押しつけた。

 高校、大学と一年違いの先輩後輩として長くつき合ってきたすみれには、これが智恵理のやり口なのだと判っている。最初は冷たく、強気で押していうことを聞かせ、それが不調に終わると態度を一変させてくる。とても判りやすい飴と鞭、ろくでもないDV男の手口にも似ているのかもしれない。

 ただ、そうやってあの手この手でどうにかして自分の欲求を押し通そうとする智恵理が、すみれからすると、どうにも可愛く思えて仕方がない。これまで何度か縁を切ろうとしたこともあったが、結局それができずにずるずると今もつき合いが続いている。

 そしてこの時も、すみれは智恵理を突き放すことをしなかった。

「……もう怒ってないから」

「先輩ならそういってくれるって思ってましたよ」

 にんまり笑った智恵理は、服の乱れを直してドレッサーの前に戻った。

「――それで、具体的な話の中身はともかくとして、結局、どんな感じなんです? 板倉先生はわりと頻繁に戸隠邸に来てるんですよね?」

「それは……大旦那さまのお見舞いもあるから、回数自体はね。ただ、逆に今はそれほど突っ込んだ話はできていないみたい」

「ということは、まだそこまで話は進んでいないってことですか?」

「ええ。わたしが知るかぎり、板倉先生が実際に会ったことがあるリターナーは、お嬢さまとわたしを除けば、あとは運転手の山内やまうちさん……それとお手伝いの月城つきしろさんだけよ」

「それって――ああ、何でも溶かす人と、水をあやつれる人?」

「そう。だから板倉先生も、“スキル”を持ったリターナーの存在そのものはもう信じてらっしゃると思うけど」

「ただ、エローダーがどうのという話までは信じてはいない……? ということ?」

「……少なくとも、リターナーの存在を公的に認めて政府で管理しようとか、政府を挙げてエローダー対策を考えようとかいうレベルではないのは確かね」

「当然ですよ」

 あらためて口紅を引き、智恵理は立ち上がった。

「――そういう問題を政治のテーブルの上に乗せるには、それが国益にどうつながるかを提示しないと。だから以前からいってますよね、一発で他国の原潜を沈められるような力を持ったリターナーとかいないんですかって?」

「今後そういうリターナーが現れないとはいいきれないけど、それは見方を変えれば、そういう力を持ったエローダーが出現するかもしれないってことよ? 怖くない?」

「怖がったって意味ないですから」

 智恵理はとても現実的な人間だった。すみれの口からエローダーという謎の存在について聞かされても、それが日本の社会全体にとって大きな害悪でないと判断すれば、その対策は後回しでいいと判断できる人間なのである。

「――正直、わたしがそのエローダーとかいう連中に出会って殺されるよりも、父の街頭演説中に頭のおかしい過激派に刺されたりするほうが、確率としてはよっぽど高いと思いますよ。もしくは高齢ドライバーに轢き逃げされるとか、病気とか。だったら政治家としては、そういう社会問題の解決を優先すべきなんです」

「……相変わらずドライなんだね、ちぇりちゃんは」

 ハンガーからジャケットを取って智恵理の肩にかけ、すみれは苦笑した。すみれが政治の場から身を引いたのは、自身がリターナーになったということもあるが、それ以前に、そうしたプライオリティのつけ方に大きなストレスを感じたからでもある。

 逆に智恵理は、どんな問題に直面しようとも、必要なら冷徹に大鉈を振るうことができる。それは、持って生まれた性格に加え、幼い頃から祖父や父のやり方を見て学んできたことが大きいのだろう。

「先輩、近いうちに、わたしにもリターナーの“スキル”というのを見せてもらえません?」

 鏡の前でジャケットをはおり、智恵理はいった。

「え?」

「わたしはもちろん先輩の言葉を信じてますけどね。……ただ、わたし自身がはっきりとこの目で“スキル”の存在を確認したことがないんじゃ、祖父や父を説得なんかできないでしょう?」

「それは……そうかもね」

「先輩の――何でしたっけ? 手当するやつ」

「“小夜啼鳥”?」

「それは一般人には使えないわけでしょう? もっとこう、目に見えて判る“スキル”を見せてもらえると助かるんですけどね」

 以前から智恵理はたびたびすみれにそうせがんでくることがあった。ただ、リターナーが“スキル”を使うのは、たいていはエローダーと戦っている時である。それを霧華たちに伏せたまま智恵理に見せるのは――たとえそれが可能だったとしても――大きな危険をともなうだろう。いざという時に、すみれでは智恵理を守れないのである。

「記録映像とかないんですか?」

「あるけど持ち出せない。……って前にいったよね?」

「じゃあ、やっぱりどこかのタイミングで覗かせてもらうしかないですね」

「……むしろ、ちぇりちゃんを正式にお嬢さまに紹介するほうが早いかもしれないけど」

「それ、できます? 場合によっては、板倉先生とうちの祖父を天秤にかけることになりますけど」

「……どうかな? 何ともいえないけど」

「それも考えておいてくださいよ。……とにかく、諸外国に対して日本が出遅れるのだけは回避したいですし」

「ええ。お仕事がんばってね」

「先輩もね」

 軽くくちづけを交わして、すみれは智恵理を見送った。

「――――」

 オートロックのドアが閉まる音が消え入り、沈黙の中にひとり取り残されたすみれは、ふと視界の隅に入った鏡を見て顔をしかめた。左右反転した自分の頬と唇に、かすれ気味の赤いキスマークがいくつも残っている。

 湿ったタオルでそれを雑にぬぐうと、すみれは鏡に向かってタオルを投げつけ、バスローブを脱ぎ捨てた。

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