第一章 浮ついた季節 〜第五節〜
「何かいった、のぶくん?」
「いや……どうせ金を出して飲むなら、ここの自販機にないラインナップを用意しないと面白くないなと思っただけだ」
「……確かに、自販機で売ってるメーカー品より明らかにおとるとか思われたら、わざわざ飲まないだろうしな」
「そこはあれだろ、女子の好きな――ほら、グラデになってるサイダーみたいなの、ああいうのでよくねえ? ワッフルとかクレープに合うかどうか判らんけど」
「そのへん、女子はこだわりありそうだよね……わたしらだけで決めたらあとで文句出ちゃうかな?」
「そこは今夜にでも連絡回して意見集めればいいっしょ。どのみち、ホットプレートとかワッフルメーカーはみんなのウチから借りることになるし、確保できる数を早めに確認しとかないと」
夏帆はこの文化祭にかなり入れ込んでいるようだった。ただ、だからといって、ほかのクラスメイトにも同じ熱量を求めようとはしない。重信にはそれがありがたかった。
☆
高橋泪にとって幸運だったのは、泪が施設育ちの天涯孤独の少女だったということだった。親類縁者がいないことが幸運だったというのは、もちろんこの社会で生きていく上では大きすぎるマイナスだったが、ある日突然、高橋泪という少女の皮をかぶって異世界で生きていかなければならなくなった泪にとっては、中身が入れ替わったことから来る違和感に気づく相手が少ないことは、むしろプラスといえる。
加えて、泪はもともと内向的で自己主張が少なく、寡黙な少女だったらしい。おのずと親しい友人も少なく、泪という少女の変貌を察した人間はいなかった。もし仮にいたとしても、そのことを深く疑問に思う者は皆無に違いない。
だから泪は、今もそういう少女を演じ続けている。
義務教育が終わって施設を出たあとは、すでにこの世界に根を下ろしていた仲間たちの手を借りて安アパートでひとり暮らしを始め、特にこれといった特徴のない私立高校に入学した。極力目立つことなく日常を送り、その一方で、仲間たちの要請に応じてリターナーの捜索を手伝っている。
今はアパートを引き払い、マスターの遠縁の少女という“設定”で、マスターが経営する「レッドライオン」の二階で暮らしているが、基本的に泪の生活に変化はない。自身の身を守るための“スキル”を持たない彼女が、リターナーとの戦いの場に出ることなどまずないからである。
「…………」
特に誰と言葉を交わすこともなく、泪は教室をあとにした。
以前、クロコリアスに尋ねられた時、泪は水無瀬学園を治安がいい高校と評したが、それとくらべると、泪が籍を置いている熊代学園は、よくも悪くも平々凡々とした生徒たちが集まる私立校だった。だからこそ泪が身を隠すのに都合がいいともいえるが、それでも周囲の耳目を集めないように日々をすごすのは簡単ではない。あまりに卑屈な態度ですごしていて、いじめのターゲットにでもされたら面倒なことになるからである。
校門近くのバス停から駅に向かうバスに乗り、泪は車内右側のひとりがけのシートに座った。特に親しい友人もいないから、学校への行き帰りはいつもこうしてひとりで本を読んでいる。席を確保できない時も、吊り革に掴まったままスマホで何かしらの本を読んでいる。もともとこの世界に関する知識を得るための作業として始めたことだが、今は純粋に読書が楽しかった。
「……?」
ふと視線を感じて文庫本から顔を上げると、ふたつ前の席に座っていた少年が、慌てて正面を向くのが目に入った。ちらりと一瞬だけ見えた横顔に見覚えがある。確か泪と同じクラスの生徒だった。
「――――」
読書に意識が向きすぎていて、自分がじっと見られていたことに気づくのが遅れてしまった。泪はまずそのことに軽くうんざりして溜息をつき、それから、あの少年の名前をすぐに思い出せないことにもう一度溜息をついた。確か以前、ほかのクラスメイトたちから、とても特徴的なニックネームで呼ばれていたのを目撃した覚えがあるのに、それすらも思い出せない。
この世界でボロを出さずにうまく生きていくには、悪目立ちすることなくこの社会に溶け込む必要がある。ただ、周囲の人間たちとかかわりすぎて自分の異質さを悟られることを警戒するあまり、これまでの泪は、逆に他人との距離を取りすぎていた。この世界に来る前から人間関係のわずらわしさに背を向けがちだった泪は、ここへ来てからはことさらにその傾向に拍車がかかっている気がする。
だが、もしかすると、今後はごく当たり前に、ほかの生徒たちともそれなりに交流していくべきなのかもしれない。それがこの世界での“ふつう”のはずだった。
バスを降りて電車に乗り換え、さらにマスターの店の最寄り駅から別のバスに乗った頃には、同じ車内にはもう見知った顔はない。またあらためて読書に専念しようとスクールバッグを開けた時、綺麗に折りたたまれていたプリントの存在を思い出した泪は、卒然と、数日前からの懸案の解決方法を見つけた気がした。
☆
シャワーを浴び直してバスローブをはおり、ほっとひと息ついたすみれがベッドルームに戻ってきた時、智恵理はすでにメイクを終えるところだった。
「え……ど、どうしたの、ちぇりちゃん? きょう泊まってくんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ」
鏡に向いたまま、ちらりと視線だけをすみれに投げかけ、智恵理は小さく鼻を鳴らした。
「……別にいいですよ、先輩はこのまま泊まってっても。そのつもりで押さえた部屋だし」
「え? え? で、でも――」
「まだ少し時差ボケが抜けないんですよね。こんな時間になってもぜんぜん眠くないんです。それでまあ、ちょっと暇潰しに先輩と遊ぼうかなって思っただけなんで」
「そ、そうなの? お仕事たいへんそうね……長谷川先生の秘書なら当然だけど」
「秘書っていっても父はそこまでわたしを信用してないみたいですけどね」
「え?」
「この前も、愛人のところに遊びにいってたことを祖父にご注進したら、あとから余計な口出しするなっていわれたし」
「あー……」
智恵理の父が艶聞に事欠かない男だということは、すみれもたびたび噂で聞いたことがある。激務から来るストレスが原因で心筋梗塞を起こすまで――それによってリターナーとして覚醒するまで――すみれもまた、政治家の秘書という仕事に就いていたからである。 すみれはベッドの端に腰を下ろし、眼鏡をかけて嘆息した。
「……それじゃわたしも帰ろうかな……」
「先輩」
「な、なぁに?」
「板倉先生、どんな感じです?」
「板倉先生って――な、何が?」
「だから、そういう余計なやり取りいらないっていっつもいってますよね? とぼけないでくださいよ」
智恵理はすみれを振り返り、くっきりと引き直したばかりの眉を吊り上げた。
「――板倉先生、“機構”のリターナーと実際に会ったりしてるんですか? もうほかの先生がたにも会わせるところまで行ったりしてます?」
「ああ、その話……」
智恵理の言葉を聞いて、なかば判っていたこととはいえ、すみれは落胆を禁じえなかった。さっき智恵理は、暇潰しに遊ぼうと思ってすみれを呼び出したといっていたが、実際にはこの話をするために呼ばれたのであって、遊ぶのはそのついでにすぎなかったのだろう。父の秘書として何かと忙しい智恵理に、そもそもただ遊ぶための時間などそうそうあるはずがない。最初から判っていたことだった。「ねえ、聞いてます? もしかしてわたしのこと馬鹿にしてるんですか、先輩?」
「いたっ!?」
じっとうつむいていたすみれを、不意に智恵理が突き飛ばした。
「おたがい忙しい身ですよね? 判ってますよね、それ?」
いかにも政治の場に身を置いている女らしい、上品なタイトスカート姿の智恵理は、その裾が大きくまくれるのも意に介さず、ベッドの上に飛び乗って仰向けに倒れた智恵理に馬乗りになった。
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