第一章 浮ついた季節 〜第三節〜


          ☆


 ヨーロッパでの外遊を終え、久しぶりに自宅へ戻ってきた長谷川はせがわ智恵理ちえりは、祖父がまだ起きていると聞いて、その書斎に向かった。

「ただいま、おじいちゃん」

「む……」

 ソファに身をうずめるようにして本を読んでいた智恵理の祖父は、孫娘の帰還に満足気にうなずき、老眼鏡をはずした。

武史たけふみはどうした? いっしょではないのか?」

「さあ……おおかた愛人のところにでも行ったんじゃない?」

 祖父の趣味に合わせて壁の三面が書架になっている広い書斎には、蒸すような夜気とはまるで別種の、作り物めいた冷ややかな空気が満ちていた。祖父自身のすごしやすさより、古い稀覯書きこうしょの保管に最適な温度と湿度の管理のために、この部屋のエアコンは一年を通して決して止まることはない。

 祖父の正面に腰を下ろし、智恵理は溜息交じりに続けた。

「――とうさんがわざわざおじいちゃんのところに顔を見せにいけっていったってことは、つまりはわたしに引っつかれてちゃ困るようなところへ行きたかったんでしょ? わたしはそう解釈したんだけど」

「またか……今度のはどういう女だ?」

「父親の愛人のハナシを娘のわたしに聞く?」

 智恵理の母はすでに故人になっている。だから、父がどこの女とつき合おうが――相手が独身の成人女性であるかぎり――道義的には何の問題もない。ただ、実の娘の立場としては、自分とそう年の差のない頭の悪い女を新しい母だといって紹介されるのは、あまり嬉しいものではない。

 ローテーブルの上にあった祖父の飲みかけのウイスキーをちびりと軽くあおり、智恵理はいった。

「ま、秘書としては? そのあたりの事情をぜんぜん知らないままってわけにもいかないから、一応お相手のことは把握してるけどね。……たぶん今夜は川崎の三号」

「何だ、それは?」

「川崎に住んでる若いホステス。とうさんの中では三番手ってこと。わたしより若くて頭が悪いけど、ちょっとつまみ食いするぶんにはいいんじゃない? 銀座の一号、新宿の二号とは今も続いてるみたい」

「いっそ再婚する気はないのか、武史は?」

「よっぽどかあさんとの結婚生活が嫌だったんじゃないの? まあ、愛人を何人こしらえようと、ヘタに貢いだり子供を産ませたりしなかったらそれでいいんだけど」

 長谷川の家には智恵理しか子供がいない。曽祖父が築いた財産を背景に、祖父の浩史ひろふみも、父の武史も、ともに代議士として辣腕を振るってきた。その地盤を引き継ぐのは自分しかいないと智恵理は考えている。いまさら父がよそに子供を作って、財産や権力が分散するのはごめんだった。

「それはつねづね武史にもいってある。そうでなければ派手な女遊びなど認めん。……それで、ヨーロッパのほうではどうなっている?」

「まあ、ストレートに認めるところはどこにもないわね。もちろんこっちだって認めてないわけだけど、何となく向こうから非公式に話し合いをしたいといってきそうな空気は感じたかな?」

 膝をかかえるように脚を組み替え、智恵理は目を細めた。

「――たぶん、日本以外の国でもエローダーは確認されてる。エローダーとは呼んでないでしょうけど」

「む……」

「現時点で、欧州各国がエローダーに対してどう対処しているかは判らなかったけど、少なくとも政府一丸となって、みたいな規模で動いてる国はなさそう。もしそんな動きがあれば、すぐにこっちにだって判っちゃうと思うし」

「他国と連携して対応していくというレベルではないか……そもそも、本当に存在するのか、そんな連中が?」

「信じてないの、おじいちゃん?」

 氷だけが残るロックグラスを置き、智恵理は唇をとがらせた。祖父は智恵理を子供の頃から何かと甘やかしてくれたが、同じ政治の道に入ってからは、公私を分けていうべきことはいってくる。それに対してこういう反応をしてしまうのは、智恵理のほうにまだ甘えが残っているのだろう。

 祖父は静かに嘆息し、

「……おまえは信じているのか? 実際に目にしたことがあるのか?」

「エローダーって、判りやすくいえば殺人鬼よ? 会いたいわけないじゃない」

「だが、おまえの友人は」

「先輩はエローダーじゃなく、エローダーと戦ってるリターナーのほう。……まあ、わたしもリターナーたちの能力を目にしたことはないんだけど、板倉いたくら先生は実際に見たことがあるみたい」

「板倉海舟かいしゅう……戸隠とがくし兵衛ひょうえの甥だったな」

「どうも戸隠の当主は、エローダーや“戸隠機構”とやらの存在を隠しきれなくなる時に備えて、板倉先生を介して政府との間にパイプを作っておきたいみたい。ただ、話が話でしょ? よほど信頼できる相手にしか打ち明けられないらしくて、なかなかシンパは増えてないみたい」

「……もし本当にそうした――超能力というのか、ふつうでない力を持っている人間がいるのであれば、実際にこの目で見てみたいものだが」

「まあ、百聞は一見にしかず? ともいうし、いずれ近いうちに、わたし自身の目で一度確かめてみるつもり」

「できるのか?」

「コネはあるから」

 智恵理はソファからいきおいよく立ち上がった。

「――とうさんはこの手の話ははなから馬鹿にして信じてないみたいだけど、うかうかしててる間に、板倉先生にいいところ全部持ってかれるのは面白くないじゃない?」

「それはそうだが……人殺しの上手い連中など集めたところで、政治の場では何の切り札にもならんのだぞ? ことが明るみに出た時に、むしろ命取りになりかねん」

「そこは使い方次第なのかもね」

「……何?」

「今の日本だと、エローダーが起こす犯罪の大半は、犯罪として立件することさえできない。要するに不能犯よね。リターナーの力を借りておこなう犯罪もそう。もしわたしにそういう力があったら、川崎の三号はあしたにでも死んでると思う」

「危ない橋を渡ってまで殺し屋を雇うつもりか?」

「冗談よ、冗談。――それじゃおやすみなさい」

 空のグラスにふたたびウイスキーをそそいで祖父の書斎を出た智恵理は、もともと自分が暮らしていた部屋に戻ると、すぐに滝川すみれに連絡を取った。


          ☆


 水無瀬祭と銘打たれた文化祭で何をすべきか、先日のホームルームでおこなわれた話し合いで、重信たちのクラスはふつうに喫茶店をやることに決まった。多少の紛糾がなかったわけではないが、生徒たちの総合的な意見をベースに、最終的には非常に民主主義的な方法で決定されたといえるだろう。

「……どうしてメイド喫茶じゃねーんだよ」

「馬鹿でしょ、あんた。去年と同じこといってるし」

 いまだにぼやいている京川に対する結城夏帆の言葉は辛辣だった。

「――どうしてもやりたきゃおまえが自腹で衣装代くらい出すべきだったな」

「そんなに予算があるわけでもねえのに、女子全員のメイド服なんか用意できるわけないだろうが」

「そもそもメイド服着たいって子ばっかりじゃないし……」

「俺もなー、三次元のメイドとか見ても、共感性羞恥心っての? むしろこっちが引いちまうタイプだし、だったらその予算でふつうにうまいケーキとか食いたい派だな」

「お、おまえら……!」

「だいたい、このクラスは女子のほうが人数多いのに、多数決で一部の男子の意見が通るわけないっしょ」

「うぐぐぐ……」

「はいはい、あんたは肉体労働くらいでしか出番がないんだから、建設的な意見がないなら黙って帰って」 自分の考えをはっきり口に出していえる夏帆は、別にクラス委員というわけでもないのに、いつの間にかクラスの女子のまとめ役のようなポジションについている。姉御肌といったら本人は気分を害するかも知れないが、実際に彼女を頼りにしている女子は多い。

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