第一章 浮ついた季節 〜第二節〜
「……何だ?」
「その――靴は脱いだほうがいいんじゃないですか? その、あとで不法侵入があったってばれたりすると、面倒なことになるかも……」
「――そうだったな」
男は笑ったのかもしれない。ただ、サングラスとマスクで隠されている男の表情は確かめようがなかった。
泪がクロコリアスと会うのは今夜が二度目だった。一度目はマスターの店の前ですれ違っただけで、まともに言葉を交わしたのは今夜が初めてということになる。ただ、こうしてやり取りしていても、どうにも掴みどころのない男という印象しか持てなかった。
「……近所の人間に目撃される前に、さっさとすませるぞ」
「はい」
泪とクロコリアスは、ベランダに靴を置いてそっと部屋の中に入った。
ふたりが手にしていたLED式のミニライトの光の輪の中に、よく片づけられた子供部屋がぼんやりと浮かび上がる。一七歳の少女のひとり部屋としては広いほうだろう。そんなところにも、この
「……妙な匂いがするな」
マスク越しにクロコリアスが鼻をひくつかせる。
「そうですか?」
「これは香水か?」
「女の子の部屋ですから」
「子供が香水を使うのか?」
「この世界のほかの国のことは知りませんけど、今の日本の女の子なら、たぶんふつうですよ」
「――そういうものか」
住人がいなくなった部屋に残るわずかな香りにもはや興味が失せたのか、クロコリアスは手袋をはめた手で机のひきだしの中をあらため始めた。
「…………」
高梨まひろが行方不明になってから、かれこれひと月近くがたつ。まひろが病院を経営するエリート医師の娘で、なおかつかなりの美少女だったということもあり、警察が公開捜査に踏み切った直後はかなりの話題にもなった。しかし、まひろの行方は杳として知れず、さりとて誘拐犯からの金銭要求もないまま時間だけがすぎていった結果、日々更新されていくニュースに上書きされ、美少女の失踪事件は早くも忘れ去られつつある。
「……この世界は情報伝達の速度が異様に進んでいるな」
型落ちでもはや電源も入らないタブレットをいじりながら、クロコリアスは呟いた。
「人類という種そのものは脆弱で、すでに進化の袋小路に向かっているようにも感じられるが――そこから生み出される科学文明は、ほかの世界では類を見ないものだ」
「……そうなんですか?」
「たいていの世界の住人たちは、“スキル”を身につけるという形で生存競争に勝つための進化の道を模索してきたが、この世界の人間は、多少の個人差はあっても“スキル”のようなものは持たず、代わりに高度に発展した科学文明で武装しているし、同時に倫理観もかなり発達しているようだ。“スキル”がないことが文明の発展をうながしているのか、それとも文明の発展が“スキル”の発生を遅らせているのかは不明だが――」
泪はほかの世界のことを知らない。泪が知っているのは、自分が生まれた世界と、そしてこの世界だけである。だが、クロコリアスの口ぶりは、それ以外の複数の世界のことも知っているかのようだった。
「……クロコリアスさんは、ほかの世界のことも知ってるんですか?」
「…………」
「わたしが生まれた世界とくらべれば、確かにこの世界は異様に見えます。……でも、わたしはそれ以外の世界のことを知らないから、この世界がふつうじゃないのか、それともわたしの故郷の世界がふつうじゃないのか、判断がつかないんです。“スキル”が存在しないこの世界は、そんなに特異なものなんですか?」
「――おびただしく存在するさまざまな世界を比較して統計を取ることは不可能だ」
クロコリアスのその言葉は、泪が求めている答えにはなっていなかった。
「もちろん俺にも何がふつうなのかは判らない。……ただ、“
「この世界が異端――」
「……何の根拠もなくこの世界を“
「その……“万罪の母”というのはどういう意味なんです? マスターの店にも、この世界をそう呼ぶ“常連客”がときどき来ましたけど――」
「……おまえは知らなくていい。もしおまえが敵の手に落ちた時、おまえの知識を敵に奪われないとはいいきれないからな」
サングラス越しに一瞥され、泪はたじろいだ。
「……それより、おまえが最後に高梨まひろと会ったのは先月だといったな?」
「あ、はい。マスターのお店でみんなで会いました」
「その日以来、おまえはその少女の“匂い”を感じていないのか?」
「ええ、まあ」
説明が面倒だからいちいち説明するのをあきらめているが、厳密にいえば、泪が“スニフ”で感じるのは能力者の匂いではないし、泪が最後に会った高梨まひろは、肉体はともかく、中身はすでに少女ではなかった。
「この部屋にはかすかに残り香のようなものがありますけど……あらたに感じるということはないです」
「ここから足取りを追うということは」
「無理です」
泪はかぶせ気味に否定した。わざわざクロコリアスが自分をここまで連れてきたのは、高梨まひろの足跡を追うためだったと知り、泪は乾いた笑みをこぼした。
「――なら、高梨まひろはやはりリターナーに正体を見破られて消されたと見るべきか」
「おそらく……」
泪はベッドの上に放置されていた学生鞄の中身を広げ、ライトで照らして確認した。
夏休みの補修で使ったプリントの束や参考書にざっと目を通してみても、本来の高梨まひろが決して真面目な生徒ではなかったことは窺える。
「……おまえの通っている学校は何という名前だ?」
「はい? ……その、
唐突なクロコリアスの問いに、泪はふと顔を上げた。
「どういう学校だ?」
「どうといわれても……たぶん、標準的な高校だと思いますけど」
別に泪が通いたくて通った学校ではない。たまたま本来の高橋泪という少女がそこに通っていたというだけの話である。 Tシャツにデニム姿の猫背の男は、ふたたび肩越しに泪を振り返って尋ねた。
「なら、この
「まあ……校内の“治安”はいいと思います」
「“治安”?」
「暴力的な生徒が少なくて平和だという意味です」
このクロコリアスという男は、泪やマスターたちよりも前からこの世界に来ているはずなのに、意外なところでものを知らないようだった。とはいえ、受験や進学といったものを経験せず、いきなりこの社会に成人として放り出されれば、そのあたりの知識が欠けていても当然なのかもしれない。
「――以前、佐藤と田中が消息を絶ったのも、水無瀬学園を調べに向かった時だったな?」
「はい」
「やはりその高校を調べたほうがいいか……在校生か職員の中に、佐藤たちを倒したリターナーがいるのかもしれない」
「でも、どうやって調べるんです?」
高梨まひろの部屋をざっと調べてみても、判ったのは彼女が水無瀬学園の生徒だということくらいだった。在籍していたクラスは判ったが、仲がよかったクラスメイトたちの名前さえはっきりしない。
「……何か手を考えなければならないな」
そう呟くクロコリアスを見つめ、泪は、彼はいったいどういう“スキル”を持っているのかと考えた。
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