地獄の一丁目

三鹿ショート

地獄の一丁目

 私は、堅実であり、面白みの無い人間だと自覚している。

 同年代の人間たちが遊び呆けている中、私は自身の能力を向上するために努力を続け、気が付いたときには、私の隣に立つ人間が存在することは無くなっていた。

 それゆえに、他者が口にすれば笑いを誘うような冗談も、私が発すれば誰もが信じられないものを見たかのような表情と化すようになってしまった。

 向き不向きというものが誰にでも存在することを思えば、私の場合は、他者と親しくなることなく、黙々と一人で生き続けるべきなのだろう。

 そして、誰にも看取られることなく、この世を去るのだ。

 そのように考えていたが、彼女と出会ったことで、私の生活は大きく変化することとなった。


***


 世辞でも、彼女のことを賢い人間だと評価することはできない。

 そのためか、私と接触することで自身がどれほど劣っているのかを自覚してしまうために、人々が私に近付くことはないというにも関わらず、彼女は私に対して積極的に声をかけていた。

 当初は彼女のことを鬱陶しく思っていたが、私の一挙手一投足を興味深そうに眺める姿が、段々と気になるようになった。

 何故、其処まで私の言動に注目するのかと問うたところ、

「私では思いつくことがないようなことばかりでしたから、新鮮だと思ったのです」

 言われてみれば、その通りである。

 端的に言えば、都会の人間と未開の地の人間が触れ合っているようなものだった。

 だからこそ、彼女は私の言動に対して、一々大げさに反応するのだろう。

 だが、それは私にとっても同じことである。

 彼女もまた、私が決して実行することがないような、阿呆たる行為に及ぶのだ。

 その姿は愚か以外の何物でもないが、どのような結末を迎えたとしても彼女が浮かべていた愛嬌のある笑みから、私は目を離すことができなかった。

 それがどのような感情であるのかなど、わざわざ口にするまでもない。


***


 我々が恋人関係に至ることはなかったが、どちらかが一歩を踏み出すことでそのような関係に至ることができるような仲になっていた。

 正反対ともいえる我々が接触しているためか、彼女は友人から、互いが互いにとって釣り合うような人間ではないと告げられたらしい。

 しかし、我々は二人で過ごす時間を無くそうと考えたことはなかった。

 それは、互いに経験することがないような世界を見せる相手ゆえに、人生における良い刺激と化していることが理由なのだろう。

 だからこそ、我々はこの関係が崩壊することは避けたかった。

 だが、悲劇というものは、物事が上手くいっているときにこそ訪れるものである。


***


 二週間以上彼女が姿を見せることがなくなったために、私は彼女の友人に事情を訊ねた。

 私と彼女が親しいことを知っているためだろう、住む世界が明らかに異なっているにも関わらず、彼女の友人は、素直に事情を伝えてくれた。

 しかし、それは知るべきではなかったことだったのかもしれない。


***


 悪人はすべからく罰せられるべきであると考えていたが、それと同時に、全ての悪人が然るべき機関に逮捕されるとは限らないということも分かっていた。

 ゆえに、彼女に対するその行為は罰せられるべきものであるにも関わらず、有力者の息子であるということを理由にその罪が無かったこととされたとしても、それほど大きな驚きは無かった。

 だが、私は怒りを抱いていた。

 それは、彼女を辱めた人間を、私が刃物を手に尾行している姿から、容易に分かることだろう。

 彼女と知り合っていなければ、私がこのような行為に及ぶことは無かったと言い切ることができる。

 しかし、今の私には、事後に対する恐怖などといったものは存在していなかった。

 私の脳内を支配していたものは、彼女の代わりに報復するという、ただ一点のみだったのである。

 やがて、動くことがなくなった人間を見下ろしながら、私は己がどれだけ愚かな行為に及んだのかを理解した。

 大事な人間のために行動することは美徳であるが、その行為は褒められるようなものではなかった。

 これまでの私ならば、罪を犯せばどうなるのかなど、想像することができていたはずだった。

 私は、彼女と親しくなったことで、本来立っていた場所から彼女に近付いてしまったのだ。

 ゆえに、これほどまでに愚かな行為に及んでしまったのだろう。

 今さらそのことに気が付いたところで、何もかもが遅かった。

 だが、これは始まりである。

 今や私は、深海に向かって沈み始めていたのだ。

 しかし、底で彼女が待っているわけではない。

 どれほど彼女が愚かであろうとも、私ほどに愚かな行為に及んだことはないからだった。

 立場が逆転したとしても、彼女は私に対して変わることのない態度を示してくれるのだろうか。

 そのように考えたが、心の底から彼女のことを思うのならば、私のような罪人が近付くべきではないのである。

 私が隣に立っているだけで、彼女までもが同じ人間として見られてしまうことは、避けなければならない。

 だからこそ、私は赤々とした液体が付着した刃物を手に、出頭することにした。

 おそらく、私にとってこの行為が、最後に残された賢い選択なのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地獄の一丁目 三鹿ショート @mijikashort

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ