第35話
真琴のアパートに行く前に、ホームセンターでモップと雑巾を買った。あと、バイトで使うペンのインクが切れていたので、替え芯も買った。
「じゃあ、行こうか」
外に出たタイミングで、買い物袋を持った僕の手を、充希が引っ張る。
「あ、ちょっと待って」
僕は、顎で店の外のトイレをしゃくった。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
「ああ、そう。わかった」充希は頷くと、手を離した。「じゃあ、私は待ってるから。さっさと行っておいで」
「うん」
荷物は彼女に持ってもらうことにして、僕は小走りにトイレに駆け込んだ。
ふっと小便器の方を見た時、サングラスを掛け、ジーパンにTシャツの、筋肉質な男が用を足していた。小便器はそれ一つしかなく、個室の方も鍵が掛かっていた。
仕方なく、男の後ろに並ぶ。
男が用を終え、僕の方を振り返る。
「あ…」
僕の顔を見て、何か思うことがあったのか、男は声をあげた。
僕は男に見覚えなんて無かったから、男の横を通り過ぎ、ズボンのチャックに手を掛ける。
「おい、お前」
初対面のくせに、男は僕に向かってそう言った。
「あの女と、付き合ってんのか?」
「え…」
あの女…と言われ、僕の脳裏に、真琴の顔が過った。
ズボンのチャックを下ろしかけたまま固まり、男の方を振り返る。
改めて男の顔を見たが、やはり見覚えが無い。でも、二十代前半くらいで、あまり良いひとではなさそう…ということはわかった。
「あの女って…、みつ…じゃなくて、真琴のことですか?」
「ああ、あいつ、真琴っていうのか」
無精髭を生やした男は、鼻で笑う。
「大変だろ。あの女の面倒」
「…いや、別に」
なんだ? こいつ、真琴のことを知っているのか?
困惑する僕を見て、男はにやっと笑うと、馴れ馴れしく肩を叩いてきた。
「まあ、逃げられないように頑張れや」
そう言うと、踵を返し、手も洗わずにトイレを出て行ってしまった。
取り残された僕は、しばらく呆然とした後、個室の方で水が流れる音がして我に返った。
「ああ…」
なんとなく不安になって、さっさと用を足す。
洗った手を拭かないまま外に出ると、辺りを見渡した。
充希は、園芸コーナーの傍で僕を待っていた。だけど、その前にはさっきの男が立っていて、気持ちの悪いにやついた顔で、彼女に何か言っていた。
「あ…」
反射的に、男に駆け寄ろうとする。
男は横目で僕が近づいてくるのに気づくと、「それじゃあ」と言って、行ってしまった。
「おい、充希」
濡れたままの手で彼女の肩を掴み、振り返らせる。
「大丈夫か?」
「ああ、ホタル…。大丈夫だよ」
普段は飄々としている彼女も、少し強張った顔をしていた。
「何を言われた?」
「いや、まあ、大したことじゃないし」
「言ってくれよ…」
泣きそうな声で言うと、彼女はため息をついた。
「本当に大したことじゃないんだ。『久しぶりだな』『元気してたか?』ってくらい」
「じゃあ、やっぱり、真琴の知り合いか…」
「あと、『前みたいに逃げるなよ』…だってさ」
「前みたいに、逃げるなよ?」
その言葉が、妙に僕の心臓に引っ掛かる気がした。
「どういうことだよ」
「さあ? 私は真琴ちゃんじゃないし」
肩を竦めた充希は、わざとらしく笑い、僕の胸を小突いた。
「ほら、早く行こう。日が暮れるまでに、掃除を終わらせたいからね」
そう言って歩き出す充希。
僕はその後ろ姿に、何か黒いものを感じずにはいられなかった。
※
不穏なことがあったものの、無理に忘れるように努め、僕たちは真琴のアパートにたどり着いた。
ここに来るのは、これで三回目だった。
一回目は、真琴が新しい本棚を買って、それの搬入を手伝った時。二回目は、バイト先で体調を崩した彼女を背負って送り、看病をした時だ。いずれも、「ありがとう」とは言われたものの、不本意そうな顔をしていた記憶がある。
鍵を開けて中に入ると、淀んだ臭いがした。
「ごめんよ。最近手入れしていなかったから」
充希は恥ずかしそうに言うと、スニーカーを脱いで、埃っぽい空気の中、窓を開けに向かった。
カーテンと窓が開け放たれ、部屋に光が差し込んだタイミングで、僕はスニーカーを脱いだ。
床も少しざらっとしている。埃が溜まっているのだ。
「モップと雑巾を持ってきたから、とにかくそれで棚を拭いて。私は床をするから」
「…しゃがみ込むなら、僕が床の方がいいんじゃないか? 腰にくるだろ」
「大丈夫、掃除機があるから」
「…ああ、そう」
僕は棚を、充希は床を同時に掃除することにした。
この一年、ほぼ手つかずなようで、本棚には埃が一ミリほど積もっていた。雑巾は使わず、モップで拭うと、綺麗に取れた。
「にしても、本当に小説が多いね」
充希が部屋を見渡して言った。
「一面本じゃないか」
「…真琴は本が大好きなんだよ」
両側の壁に、天井に着くくらいの本棚が四つあって、その一つ一つに小説が詰め込まれていた。それだけじゃ収まりきらなかったようで、立てた本の上にも、本が積み重なっている。少し触れると崩れ落ちそうだ。
僕がプレゼントした小説も混ざっていて、少しうれしくなる。
「よくこの大量の本を、こんな狭いアパートに入れたね」
「…まあ、僕が手伝ったんだけどね」
歩くとミシミシ…と音がした。ただの家鳴りなのだが、なんだか、この大量の本のせいのような気がして怖くなった。
「このまま床が抜けたら、下の階の人はひとたまりもないだろうな」
「言えてる」
笑いあった後、また手を動かす。
あと一か月で真琴が帰って来るんだ。彼女がこの部屋に入った時、「なにこれ、めちゃくちゃじゃない」と怒らないように、丁寧に掃除をした。さながらホテルのベッドメイクのように。埃をすべてふき取り、バラバラになった本は巻数を整えて収納。それでも治まらないときは、百均で買ってきた書籍ケースに詰め込み、部屋の隅に積み上げた。
押し入れから布団を取り出すと、少し黴臭かったので、近くのコインランドリーに持って行って洗った。洗っている間も、アパートに戻り掃除を続けた。時間が来るとコインランドリーに戻り、今度は乾燥機に布団をぶち込んで回した。
三時間ほどで、部屋の埃は一掃され、黴の臭いもまったくしなくなった。匂いが目立たない消臭剤を置くと、部屋はさわやかな空気に包まれた。
「終わったね」
「うん、疲れたよ」
思ったよりも重労働だった。特に、布団を運ぶとき。
腕がひきつるように痛くなり、僕はその場にしゃがみ込んだ。
充希が「ありがとね」と言って、僕の頭を撫でる。
「少し休もう。ジュースを買ってくるよ。何がいい?」
「冷たいものなら。あ、じゃあ、カルピスで」
「わかったよ。すぐ帰って来るから」
そう言って、充希は部屋を出て行った。
バタン…と扉が閉まり、静かになる。澄んだ空気を吸い込み、充希の机を見ると、その上に大量の書類が積み重なっているのが見えた。
あ、真琴の郵便物の整理、してないや…。
僕は腰を剥すように立ち上がると、机に歩み寄った。大事なものとそうじゃないものを分けようと手を動かす。ほとんどが料理店や塾のチラシ、聞き覚えの無い宗教の本、新聞勧誘の申込書などばかりだった。
器物損壊罪、私用文書等毀棄罪などが頭を過ったが、まあ、これは捨てていいだろう…。
そう思い、それらを重ねてナイロン紐で纏めた。
残った大切そうな書類は、使い古したクリアファイルに挟み、右にあった引き出しを開けた。その中に入れようと思ったのだが、そこは、大量のキャンパスノートで満員だった。
別の引き出しを開けてみようと、閉めかけた時、一番上のキャンパスノートに、真琴の字で「日記」と、書かれていることに気づいた。
「……」
僕は思わず手を止めた。
蝉の鳴き声を聞きながら、ノートの「日記」という文字と、玄関の扉を何度も見比べる。エアコンをつけていたが、なぜか脇の方から汗が滲んだ。呼吸も、心臓も逸る。
ダメだよ。これは、いけないことだ。
親しい仲にも礼儀がある。親しくなくても、これはいけないことだ。
そう言い聞かせたが、手は僕の意思に反して動き、そのノートを掴んでいた。
食らい付く様に、ノートをめくる。
「……あ」
めくって初めに飛び込んできたのは、「死にたい」という文字だった。
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