第34話

 梅雨が明けて、懐かしい暑さが戻ってきた。

 窓を開けると、網戸越しに生温い風が吹き込んで僕の頬を撫でた。一瞬、さっき電源を落としたばかりのエアコンが恋しくなったが、電気代のことを考えると、我慢して、そのまま扇風機を回す。

 そう言えば…。と思い、部屋の隅に置いてあった紙袋からガラス細工の風鈴を取り出した。昨日、充希と言った七夕祭りの屋台で買ったものだ。カーテンレールに吊るすと、風が吹き込んだ瞬間、チリン…チリン…と涼やかな音を立てる。

それを、寝転がりながら見ていた充希が、「いいね」と楽しそうに言った。

「すごく涼しい」

「元は、魔よけの役割があったらしいな。それがいつの間にか、涼しいっていう印象を持たれるようになったとか」

「何事も、信じる者が救われるのかね」

「だから、幽霊には効かない」

「私、魔物じゃないから」

 充希は頬を膨らませると、それから、思い出したように言った。

「そう言えば、ホタル、午後からの予定ってある?」

「あ、いや、特に無いよ。バイトも明日からだし」

「じゃあ、付き合ってくれないか?」

「うん? 何処かにいくの?」

 乗り気じゃなかったので、ごねようと息を吸い込んだ瞬間、充希が続けた。

「ちょっと、真琴ちゃんのアパートに行こうと思って」

「真琴のアパートに? 何しに行くんだ?」

「いや、次のお盆まで、あと一か月だろう? もう時間が無いから、そろそろ彼女の部屋を掃除しようと思って」

「え、あ、あああ…」

 すっかり忘れていた僕は、変な声をあげた。

 充希は恥ずかしそうに斜め下を見た。

「一応家賃は払って、たまに帰って掃除とかはしていたんだけど、この三か月はホタルと一緒に居ることが多くて…、電気メーターもガスメーターも全く上がっていないから、大家から連絡が来て…」

「逃げ出したと思われたのか?」

「ただの安否確認だったから、大丈夫だよ。あ、もちろん、冷蔵庫も空っぽにして、電源プラグも抜いているし。ただ、真琴ちゃんあてに届いた手紙類は、どうすればいいのかわからなくてそのままにしているんだ」

「…なるほど」

「床とか棚に溜まった埃の掃除と、その郵便物の振り分けを手伝ってもらいたいんだけど、いいか?」

「…いいけど」

 あまりにも充希があっさり言うものだから、僕はつい聞いていた。

「…充希、お前、本当に真琴に身体を返すつもりなのか?」

 充希はきょとんとしていた。「え、こいつ、何言っているの?」と言いたげな顔をしていた。

「ええと、返すつもりだけど…。まさか、私が返さないと思っていたの?」

「充希がその気になれば、そうできるだろう?」

 言った後で、ちょっと怖くなる。

 まるで、充希に「帰るな」と言っているように思えたのだ。

「残ってほしいって言っているわけじゃない。僕だって、真琴をさっさと返してほしいさ」

「私がこの身体を奪って何になるんだ。言っただろ?」

 こういう話をするとき、彼女は諭すように、僕の額を小突いた。

「あの世は楽しいところなんだ。現世よりもずっとね。だから、今更この肉体でおばあちゃんになるつもりなんて無いよ。そもそも、この身体は真琴ちゃんのもの。私は、真琴ちゃんの身体を借りているだけ。期間が終わったら返すのは当たり前だ。ホタルだって、図書館で小説を借りたら、二週間以内にきっちり返すだろう?」

「…まあ、そうか」

 まるで、僕が思っていることを見透かしたように、念を押すような答えだったため、ちょっと嫌になる。

「それに、気持ち悪いんだよ。魂と肉体が合っていない感覚があって。例えるなら、人の履いたパンツを履いている感じだね」

「ああ、極力履きたくないけど、公然わいせつで捕まらないために仕方なく履く…みたいな」

「そう! それ! なんだ、ホタルって案外面白いこと言えるじゃないか!」

「やめてくれよ」

 僕の言葉がよほど気に入ったのか、充希は「パンツ…、そうだね、パンツだ」と、傍から見れば変態にしか聞こえないことをつぶやいていた。

 一通り反芻した後、彼女はおもむろに起き上がった。

「ということで、三時くらいから、真琴ちゃんのアパートに行こう」

「わかったよ」

「じゃあ、お昼ご飯作るけど、何食べたい?」

「なんでもいい」

「それは一番困る奴だね。結婚したらトラブルになるよ」

「別に、結婚する気なんて無いんだけど」

「失礼だなあ、恋人同士じゃないか」

 充希は立ち上がると、僕の肩をぽんぽんと叩いた。その時に、扇風機の首が彼女の方を向き、その黒髪を優しく揺らした。

「じゃあ、カレーでも作るよ。多めに作れば、夕ご飯の時も食べられるから」

「…材料、あるの?」

「人参が無いけど、何とかなる」

「…なるほど」

 すぐに、トントントン…と食材を切る音が聞こえた。一度も料理をしなかった真琴じゃ絶対に出せない音だ。

 充希が鼻歌交じりに料理をする様子を、僕はリビングの壁にもたれかかって眺める。

 しばらくすると、市販のカレーのスパイシーな香りが部屋に充満し始めた。換気扇はつけているのだが、どうも気になる。窓からは風が入ってくるばかりだ。

「…そうか」

 もうすぐ、充希があの世に帰るのか…。

 バチン! と音がしたので見ると、窓にカナブンが張り付いていた。

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