第八章『彼岸の亡霊』

第33話

 あの日から、僕と充希の仲は深まった。毎日一緒にいるようになった。

 一緒の布団で眠り、七時になると目を覚ます。朝食は、月水金が僕の担当で、他の日は充希が担当した。僕の味付けは濃い目で、充希の味付けは薄味。玉子焼きは僕の方が綺麗に焼いた。でも味噌汁の出汁は彼女の方が上手く取った。

 同じ書店でアルバイトをして日銭を稼ぎ、週末は、浮いた金でどこかに出かけた。充希は、博物館や動物園、美術館など、展示物を見て回る場所を好んだ。人がそこまで多くなく、教養にもなるので、僕も気楽で好きだった。行く前に、予備知識だけ付けて向かうのだ。そして、疑問に思ったことを口々に話した。それがたまらなく楽しかった。僕たちの会話を聞いて、詳しく話をしてくれる職員もいれば、「静かにしてください」と注意する職員もいた。

 正月は、一緒に初詣に行った。おみくじを引くと、僕は中吉で、充希は小吉と、何とも面白みの無い結果だった。お守りは、シンプルなものにした。

 別に、ご馳走を食べ過ぎたわけではないが、一月七日になると、植物図鑑を片手に野原に駆り出して、セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロを採集して、春の七草粥を作って食べた。調理前に綺麗に洗わなかったために、土鍋に小さな虫が浮いてきて、ちょっとだけ嫌だった。

 二月になり、節分になると一緒に豆をまいた。からかってやろうと思い、充希に「悪霊は外~」と言って豆を投げつけると、本当に出て行ってしまった。深夜を回っても帰ってこなかったので探しに出たが、見つからなかった。そのうち、母と父、祖母の亡者に取り囲まれ、道端で泣いていると、近くに隠れていた充希が飛び出してきて、追い払ってくれた。酷いことを言ったのは僕なのに、めちゃくちゃ謝られた。

 バレンタインの日は、互いに作ったチョコを交換した。僕は、溶かしたチョコをカップに流し込み、その上にカラースプレーを振りかけるという、簡単なものしか作れなかったが、充希は生トリュフを作って、僕を驚かせた。生前から料理は得意なのだろう。

ホワイトデーの日は、僕も頑張ってクッキーを焼いた。だけど、やっぱり充希が焼いたものの方が、さっくりとして、バターが香った。

 十八日から彼岸が始まったので、「このタイミングで帰れるんじゃないか?」と聞いたが、充希が言うには、彼岸はあの世とこの世の距離が近くなるだけで、二つの世界が通じるわけではないらしい。それを聞いて、少しほっとした。充希もからかうように笑って、「ギリギリまでホタルと一緒に居たいからね」と言った。口には出さなかったが嬉しかった。

 四月一日は、案の定「あの世に帰ります」という置手紙をして、充希がいなくなった。エイプリルフールの嘘だと分かっていたので気にしなかったが、日が変わるまで帰ってこなかったときは流石に焦った。だから、帰ってきた彼女に、「嘘をついていいのは午前中までなんだよ! ちゃんとルールを守れよ!」と、少し本気で怒った。それでも充希はへらっと笑っていたが。

 五月に入ると、下の階に住む五歳の男の子が、幼稚園で作った紙のこいのぼりをプレゼントしてくれた。しばらくはそれをベランダに飾って、拙い鯉が泳ぐのを楽しんでいたのだが、ある日の突風で千切れて無くなってしまったため、充希と一緒に探した。日が暮れる直前に、公園の遊具に引っ掛かっているのを見つけたときは、お互い泥だらけ汗まみれだということお構いなしで抱き合って喜んだ。

 また、八十八夜にちなんで、充希が『茶摘』を歌うのを耳にした。それを聴くのは、小学生の時以来で、懐かしくなって一緒に歌った。楽しくなって、歌に合わせて手遊びをした。変に興奮して、「新茶だ!」なんて言って、近くのスーパーで緑茶を買って飲んだ。苦かった。

 六月になると、雨の日が続いた。約束していたお出かけがことごとく中止になった。そういう時は、部屋に籠って小説を読むのだが、それにも飽きて、昼寝をした。充希は僕を抱き枕のようにして眠った。胸に顔を埋められるのは、悪くない感触なのだが、夏が近づいて、蒸し暑くなった部屋でそれをされると、少しきつかった。

 雨の日が続いて、続いて、湿気を呼んで頭が痛くなって、ついに我慢ならなくなった充希が、「うおおおお!」と、変な声をあげながら外に飛び出していった。僕も、彼女を追って雨の中に飛び込んでいき、二人はドロドロに浸水した公園の土に飛び込み、抱き合いながら転がった。お互い顔も体も真っ黒になって、それを見合って、また笑った。泥のつけ合いなどという、小学生もするかどうかわからない遊びをした。

 楽しかった。素直に言うよ、幸せだった。

 僕には親はいない。母親に刺され、父親に見捨てられ、祖母には虐待を受けるという、悲惨な過去を無かったことにすることもできなかった。相変わらず、ふとした時に亡霊どもの姿を見た。その度に怖くなって泣きそうになった。

 でも、僕には充希がいた。

 何も持たされず、荒野に放り出されたような僕を、彼女の優しさが抱きしめてくれた。

 一度死んでいるからこそ、充希は命の尊さを知り、そして、人生の送り方を知っていた。残り少ない現世での日々で、彼女は、その身体をもって、刻み込むように、僕にそれを教えてくれた。

 気が付くと、僕は少しだけ明るくなっていた。

 ご近所さんに「こんにちは」って挨拶するようになっていた。バイト先の店長にも愛想よくできるようになった。やがて、周りから僕の方に寄ってきて、「こんにちは」って言ってくれたり、ささやかなものをおすそわけしてくれたりした。

 これが人望なのだ。と、実感した。

 充希の手厚い世話の甲斐あって、金魚はまるまると太った。あれ以来、建物や水草を買い足したので、水槽の中は、一つのジオラマのようになっていた。

 亡者を目にする機会は、少しだけ減った。ほんの少しだけだ。一日四回だったのが、一日に二回くらいに減った。それでもかなり楽になった。見たときは充希が追い払ってくれるから、栄養剤を飲むことはほとんどなくなった。そのおかげか、それともほかの要因か、心なしか体調が優れるようになった。

 梅雨が明ける頃には、僕は何も怖くなくなっていた。

 晴れた空を見て笑う僕のどこにも、一年前の、怯えて日々を過ごしていた僕の面影は存在しなかった。目に宿るのは、希望。これからの日々に、思いを馳せるのみだった。

 ああ、楽しいなあ。幸せだなあ。

 そう思って生きて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きて…。

 七月になった。

 充希があの世に帰るまで、あと少しとなった。

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