第32話

 僕たちはペンギンが通りやすいように道を開けた。

「ペンギンって、なんで飛べないんだろうな」

「また変なこと考える」

充希は呆れたように笑いながらも考えてくれた。

「さあ? そもそも鳥なの? ペンギンって」

「嘴があるし、鳥だろ」

「でも、あれは翼とは言えないんじゃない?」

「確かに短いよな…。あ、でも、高校の生物で、相同器官っていうのを習ったんだ。人間の腕が、鳥で言う翼だから、ペンギンのあれも一応翼ってことになるんじゃないか?」

「じゃあ、鳥か」

「でも飛べないのか…」

「飛べる生物が鳥ってわけじゃないよ、多分。ほら、蝙蝠は飛ぶけど哺乳類だし」

「ああー」僕は変な声をあげた。「じゃあ、ペンギンってなんだよ」

 その時、ペンギンの傍にいた飼育員さんが大きな声で言った。

「ペンギンは、鳥網ペンギン目に位置するので、れっきとした鳥ですよ~。飛べない代わりに、泳ぐことがとても速くなったんですよ~。だよね~」

 歩いていたペンギンは汚い鳴き声を上げた。

 羞恥心で頬が熱くなる。

 飼育員さんは僕の方を見て、「他に質問はありますか?」と言った。

「いや、なにも」と言いかけて、やっぱり聞いた。「ペンギンって、寒いところに住んでいますよね。どうして日本で生きられるんですか?」

 その質問に対し、飼育員さんは周りに聞こえるように言った。

「実は、寒いところだけじゃなくて、赤道といった熱い場所に住んでいるペンギンもいるんですよ~。だから、ペンギンは住む場所に適応するんですよ~」

 なるほど…、また一つ賢くなった。

 そのまま、ペンギンは向こうに行ってしまった。客たちはまた、水槽を眺めはじめる。

「ねえ、ホタル」

 充希が嬉しそうな顔で僕を見た。

「もしかして、今、楽しい?」

「…え」

「すごく、口が笑っていたよ」

「…こんなの初めてだよ」

 僕は肩を竦めた。

「…楽しいと、僕は口が達者になるらしい」

「そりゃよかった」 

 そういう彼女は、うれしいと軽く跳ぶ癖がある。

「じゃあ、もっとお話ができるじゃないか」

「…そうだな」

 そうだ…、こんなの初めてだ。

 それからも、僕たちは水槽を見て回った。写真はあまり撮らなかった。泳ぐ魚を見ては、「これでうまく泳げるのかね」「飼育が大変そうだ」「目が合ったぞ。見えているのか?」なんて、くだらないことばかりに気が付いて話をした。面倒な僕の話に、充希は笑いながら乗ってくれた。一つ一つの水槽に時間をかけるせいで、一人、また一人と、客が僕たちを追い抜いていく。きっと熱心なカップルに見えていたことだろう。

 閉館時間が近づいて、ようやく土産屋に入った。客もすでにまばらだった。

「なにか買うか? クッキーとか」

「そうだね、これとかいいんじゃない?」

 充希は、傍にあった棚から、コンパクトな箱を手に取って見せた。

 それは、ペアネックレスだった。銀色のチェーンに、イルカの意匠が施されている。水族館のロゴは、タグとして添えられていた。値段はそこまで高くない。

「お揃いか」

「そうだね」

「…わかった」

 僕はネックレスの箱を買い物かごに放り込んだ。

「あれ?」

 充希が目を丸くする。

「…どうした?」

「いや、『お揃いなんか恥ずかしい』って言われるのかと」

「別にいいだろ。それに、形として残った方がいいじゃないか。僕と充希が、ここに来たって言う証拠を」

「ああ、そうか」充希は納得したように頷いた。「…そうだね。次のお盆がくれば、私はあの世に帰っちゃうから…、うん、その方がいい。なかなか、良いことを言うじゃないか」

「え、ああ」

 今しがた、僕と充希の間で相違があったことに気づくのは、その三秒後だった。

 充希は、僕がネックレスを買う理由として、「いつかあの世に帰ってしまう自分のため」と解釈をした。

 違うんだ。僕は、そこまで深く考えていなかった。

 クッキーは食べたら無くなってしまう。だったら、少し値が張っても、形としてこの世に残るものを買おう。だって、ずっと、一緒にいるのだから。

 …そうだ、僕は、充希とずっと一緒にいるものだと思い、ネックレスを買うことを承諾した。

 充希が、あの世に帰ってしまうことを、忘れていた。

「ええと、じゃあ…」

 思い込みにも似た感情に困惑しつつ、話を継ぐ。

「クッキーも、買おうか」

        ※

 結局、水族館を出たのは、閉館の五分前だった。

 シャトルバスの時間をギリギリ過ぎていて、駅までのタクシーを呼ぼうと思ったが、歩いた方が早いと判断しやめた。たかが一キロだ。大したことない。

 そう高を括っていたが、吹きつける風はナイフを仕込んでいるように鋭く、冷たかった。手袋を持ってきていないので、一瞬で指先の感覚が消え失せた。

「寒いね~」

 充希の声では、一ミリも寒さを感じない。

 まだ九時を回った頃だったが、通りは閑散としていた。多分、ほとんどの人間は早めに帰って、クリスマスを祝っているのだろう。それとも、ホテルに入っているのだろうか?

 信号待ちの間、充希は買った箱を開けて、ネックレスを取り出すと、首に掛けていた。

「ねえ、似合う?」

「…うん」

「なんか、心がこもっていない」

「…いや、似合うよ」

 明るい場所じゃ気づかなかったが、意匠にラメのようなものが施されているのか。街灯の明かりを反射して、星のようにきらめいている。子供だましだとは思ったが、なかなか綺麗だ。

「ほら、ホタルも着けなよ」

「…わかったよ」

 僕はポケットから手を出すと、彼女からネックレスを受け取った。

 ホックを外すのに手間取りながらも、装着する。少しヒヤッとしていた。

「どうかな?」

「うん、似合っているよ! かっこいいね!」

 充希は親指を立てた。ちょっとお世辞っぽい。

「ちなみに、イルカとイルカを組み合わせたら、ハートマークができるって。やろう」

「…寒いから、これ以上首を晒したくないんだよな」

「ほら、恥ずかしがらない」

 充希は鎖骨を晒すと、ネックレスの意匠を摘まみ、僕の方に突き出してきた。

 僕もやけくそで、自分のイルカの意匠を彼女の方に突き出す。

 二人のイルカが合わさり、ハートマークを形作った。

「あ…、結構綺麗に嵌るんだな」

「そうだね」

 そう頷いた時だった。

 充希が僕の方に身をよせ、かじかんだ唇に、自分の唇を重ねた。

 一瞬で、頭の中に熱が広がる。

 何をされたのか、本能的に理解して、そのまま固まった。

 たった一秒のキス。でも、一分にも感じた。

 充希は唇を離すと、してやったり顔で舌を出した。

「どうだった?」

「…悪くない」

「なにそれ」

「…浮気しちゃったな」

「身体は真琴ちゃんだから」

 通りすがった車のヘッドライトが、彼女の頬を照らす。微笑んでいたのは、真琴の姿をした幽霊だった。四か月前まで、僕はこの女の子と、冷え切った関係を築いていた。

 それなのに、今は心が暖かい。罪悪感を押しのけて、幸福が胸の中に湧き立つ。

 人は見た目じゃない。とはこのことか。常につんけんとした言葉を吐き、僕の何にも興味を示さなかった女の子に、愛おしさを感じる。その身体に、安らぎを求めている。

 信号が、青になった。

「ほら、帰ろう」

 充希が僕の手を握る。お互い冷え切った手だったが、強く握り合えばすぐに熱が生まれ、腕を介して、心臓を循環した。

「また来るといいよ。今度は、真琴ちゃんと一緒に」

「…そうだな」

 僕の中で何かが変わり始めている。そんな気がした。きっと、好転している。

 それなのに、なぜか寂しかった。うれしいのに、悲しかった。

 充希の掌の体温を感じながら、夜空を見上げる。

 真琴って、どんな奴だったっけ?

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