第31話
「何が言いたいかって言うと、ああいう人を見ると、やるせなくなるだけ…。ただそれだけなんだ…」
一瞬視界がぼやけた。
顔を上げた時、薄暗い通路の奥に、黒い影が立っているのに気づいた。
その輪郭から、首を吊った男だと気づいた。
「…ごめん」
小刻みに震える手で、鞄に入れた栄養剤を取ろうとした時、僕の肩に、充希が優しく体当たりをした。その衝撃で、少しだけ視界が明るくなる。
人がいるというのに、充希は僕を抱き寄せると、背中を叩いた。
「何処にいるの?」
「通路の、奥…」
「わかった」
充希は少し声を潜めると、通路の奥に向かって、「せっかくのデートなんだから、少し席を外してくれないか? ああ、頼むよ。他の奴にも言い聞かせて」と言った。それから、「もう大丈夫」と言って、僕から離れた。
見ると、父の影は消えていた。
「さあ、楽しもう」
彼女はそう言ったが、周りの視線が冷たかった。そりゃそうか。突然僕を抱きしめ、何もない空間に向かって話しかける奴なんて、気持ち悪いに決まっている。
「なんか、ごめん」
「別に。変な目で見られるのは、私じゃなくて、真琴ちゃんの身体だからね。あっはっは」
わざとらしく笑った充希は、僕の手を引いた。そして、さっきの話の答えのようなものを口にした。
「最初から恵まれている人はね、それがどれだけ大切なものか気が付かないものだよ。嫌な言い方をすれば、自分一人じゃ成しえなかったことでも、さも自分の手柄のようにしてしまうんだ。私は、そんな傲慢な人間が良いとは思えないけどね」
「貧しさは美徳だってか? 恵まれていることに越したことは無いだろ。それで、幸せに生きていけるんだから…」
「まあ、そうなんだけど…」肩を竦める。「でも、もしホタルがそうだったら、私には会えていないだろう?」
「…まあ、そうだけど」
「私に会ったことも最悪だって言うなら、ホタルの思うことが正しいんだろうね。まあ、正しいとか悪いとかの話をするつもりはないけど」
「ずるい言い方だな…」
他の客が僕たちから離れていくのを感じながら、僕は充希とともに進んだ。
「お前と出会ったことは、悪くなかったよ」
「そうだろう?」嬉しそうに笑う。「要するに、どう感じるかだよ。お味噌汁と白ご飯を食べるのに幸せを感じるのか、それとも、高級レストランの肉汁滴るステーキに幸せを感じるのか」
「なんじゃそりゃ。意味が分からん」
「ちなみに、私は前者だね。暑い日はハーゲンダッツじゃなくて、ポッキンアイスに幸せを感じるタイプ」
そして、彼女は言い聞かせるように言った。
「その方が、気楽でいいじゃないか。恵まれていると、失った時に大変だ」
その瞬間、視界が明るくなった。
はっとして見ると、そこはトンネル水槽だった。
ガラスがなだらかに僕たちを囲み、その向こうには、悠々と泳ぐ海の魚たち。枝葉を広げるように配置されたサンゴや岩が、海底の様子をリアルに再現している。見上げると、月の光を思わせる水色の照明が、淡く魚たちの鱗を照らしていた。足もとのスピーカーからは、泡の音が流れていて、さらなる没入感を持って僕に押し寄せた。
「おお、すごいね。海の中に飛び込んだみたいだ」
充希は早速水槽に駆け寄った。
「あれはウツボじゃない? あれは私でもわかる。ウツボだ」
「だったら、あれはハンマーヘッドシャークだ。僕でもわかる」
「あれ? サメだよね。なんでほかの魚食べないの?」
「さあ、草食なんじゃないか?」
適当なことを言うと、またさっきの声が聞こえた。
「いっぱい餌を食べているからだよ!」
さっきの男の子が目を輝かせながら僕たちを見ていた。
「日本では、アカシュモクサメって言うんだ。ここでは十分な餌を与えられているから、他の魚を食べないんだよ!」
「ああ、そう」
頷くと、またお母さんがやってきて男の子を連れて行った。少し離れた場所で、「あの人達に話しかけたらダメよ」と言い聞かせている。
充希が、やれやれと言いたげに笑った。
「さっきの、見られちゃったか」
「…なんか、ごめん」
「だからいいって」
充希はまた水槽に目を移した。
「お、あれはマンタだ。私、背中に乗って泳ぐのが夢なんだよね。泳げるのか知らないけど」
「…ちっちゃいし、エイじゃないか?」
「マンタのエイの違いって何よ」
「…さあ。あ、ここに書いてある。エイは水底でじっとしていて、マンタはずっと泳いでいるらしいよ。ってことは」
「あれはマンタだね」
「ちっちゃ。充希が乗ったら潰れるだろ」
「失礼だね。水の中に入ったら浮力が働くんだよ」
「ええ…」
そうこうしていると、奥の方が騒がしくなった。それと同時に、館内アナウンスが流れる。
『ただいま、ペンギンのお散歩中です。ペンギンさんがやってきたときは、お手を触れず、あまり声を立てないようにお願いします。また、写真を撮るときは、フラッシュは焚かないようにお願いします』
それを聞いた僕は、充希の方を見た。
「だってさ」
「あ、来たよ」
言った傍から、向こうからペンギンが二匹、飼育員に連れられて、このトンネル水槽に入ってきた。周りにいた客から歓声があがり、皆一斉にスマホを取り出した。
僕も一応スマホを取り出す。
さっきアナウンスで注意を受けたばかりだというのに、誰かがパシャリとフラッシュを焚いた。飼育員がやんわりと、「フラッシュは切ってください~、お願いします~」と言う。ペンギンは何のそので、よちよちと歩いていた。
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