第30話

「次に行こうよ」

「ああ、うん」

 充希に引っ張られ、僕は矢印の指す方へと歩いた。また小さな水槽が並んだ通路で、ヒトデやイソギンチャクなど、魚とは少し違う生物が見えた。男の子が言った通り、イソギンチャクらは、手を振るように触手を蠢かせていたが、他のヒトデや貝、ウミウシは水の底でだらしなくじっとしている。シュールではあるものの、面白みに欠けると思った。

「さっきの男の子ってさ」

 陰気臭い話をするのはよくない。そう思っても、つい言葉が零れ落ちた。

「家でも、魚の図鑑とか読み漁っているのかな」

「…じゃないの?」充希が水槽を優しく突きながら頷く。「絶対、図鑑とかに埋もれた生活をしていると思うよ。あの歳で無脊椎動物って口にするなんて、将来有望だね」

「将来、有望か」

「何が言いたいの?」

「いや…、単純に、羨ましいと思っただけだよ」

 ごめんよ、気分の悪い話をして。そう前置きしてから、僕は言った。

「勉強するのには、金が要るだろ? きっと、あの家庭では、男の子が望めば、ぽんぽんと図鑑やらが手に入るんだ。実際、身なりが凄く良かった。ブランドものばっかりだ。あれは金持ちだよ。きっと、男の子は、勉強するのに苦労をしない…。どんどん頭が良くなって、きっといい大人に成長するんだ」

 僕の卑屈な言葉に、充希はため息時交じりに笑った。

「…勉強をするには、意欲が必要だよ」

「その意欲も、きっと簡単に湧いてくるんだろうな。だって、金には困らないから。魚が好きなら、高い図鑑を買うのにも躊躇しないだろうし、もしかしたら、馬鹿でかい水槽を買って、馬鹿高い魚を飼うのかもしれない…」

 あの時、充希は僕に、「もっとホタルのことを教えてほしい」と言った。

 その言葉の通り、僕は彼女に、もっと僕のことを知ってほしくなった。

 しかし悲しいかな、口から零れ落ちるのは卑屈だった。

「僕は、絵が上手かったんだ。中高の成績は全部五だったよ。実技のテストも、いつも学年一位だった…。美術の先生が僕に良くしてくれて、美大を勧めてくれたこともあったんだよ」

「…それと、あの男の子、どう関係があるの?」

「環境の違い。一時、一瞬だけど、僕は美術の先生になりたかった。だけど、美大は金がかかるし、画材を集めるだけで莫大な金がいる。そんな金、僕の父さんは出してくれなかった。実際、金を出す前に蒸発しているから…」

 せっかく楽しくなりかけていた雰囲気が、一瞬で最悪になるのが分かる。

 こんなこと、水族館に来てまで言うことじゃないよな…。

「まあ、それでも、頑張ればよかったんだ。ちょっと無理して借金をして、後は奨学金でなんとかなったかもしれない…。だけど、ばあちゃんに、『お前の画はへたくそだ』『才能がない』って言われたんだ…。今思えば嫌がらせだとは思うけど、それが結構心に来た。ああ…、僕は才能が無いんだ…って思ったんだよ」

 それから、さっきの男の子と結び付けて話す。

「例えば、あの男の子が、海洋学者の夢を持ったとしよう。両親はきっとそれを応援する。子どものためだ! って言って、出す金も惜しまない…。僕の住む家じゃできなかったことだ…。もちろん、僕だって、誰から応援されなくても、やればいい話だよ。でも、それは机上の空論なんだよ。あの家に居たら、その勇気さえも削ぎ落されるんだ…」

 言った後で、「ごめん」と謝った。

「何が言いたいかって言うと、ああいう人を見ると、やるせなくなるだけ…。ただそれだけなんだ…」

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