第七章『海に呑まれる』

第29話

 その日の夕方、僕は充希を連れて隣町の水族館に向かった。少しだけ、怪我をした足が痛かった。

 クリスマス限定のカップル割引、来場者に限定ストラップの配布。さらには、新しい魚のお披露目会など、イベントが盛り沢山なんだ。絶対に人が多いに決まっている。人酔いしそうで怖いなあ…。そう思って、少し憂鬱だった。

だが、なんてことなかった。確かに、客は多かったが、去年のイルミネーションの比じゃない。しかも、静かで、随分と歩きやすかった。

「私、水族館に来るって初めてなんだよね」

 充希は、パンフレットを眺めながらうきうきした声で言った。

「…僕は、修学旅行の時に、大阪にある水族館に行ったことがあるよ。ここよりもずっと広い場所なんだ」

「どうだったの?」

「…最悪だった。班のみんなが共謀して僕を撒いて、僕は集団行動ができない馬鹿として先生に叱られた」

「ああ…」充希は苦笑した。「まあ、今は酷い同級生はいないから、自由に楽しもう。こういうのは少人数で回るものだよ。多分」

「そうかな」

「そうだよ。きっと」

 充希は僕の方に身を寄せて、手を優しく握った。僕も握り返す。

 周りから見れば、さも「カップル」な二人は、ゆっくりと順路を歩き始めた。

 藍色の照明が揺らめく、薄い通路には、まるで前菜とでも言うように、小さな水槽が並んで、小さな熱帯魚たちが泳いでいた。ブルーアイラスボラ、エンゼルフィッシュ、ラミーノーズテトラ、クーリーローチ…。一度見ただけじゃ覚えられないような名前のものばかりで、どれも、蝶が羽を広げたように鮮やかな色をしていた。

「すごいな。うちの金魚とは大違いだ」

「金魚すくいに出されるような屑魚と一緒にしたらダメだよ。掛けている金が違う」

 きっと、この一匹一匹に、「色が鮮やかになる餌」みたいなものが与えられているのだろうな。

 そんな現実的なことを話しつつ、通路を抜けた。少し広い空間に出て、設営されてある水槽も大きくなる。海水魚のコーナーのようで、熱帯魚にも負けず劣らずの鮮やかな魚が泳いでいた。でもやっぱり、説明文に書かれたカタカナの名前は読みにくく、ピンとこなかった。

 近くにいた男の子が声をあげた。

「すごい! ハタタテハゼだよ! ほら群れを作っているよ! あ、こっちは、ルリスズメダイだよ。すごく怒りっぽいんだって」

 あんな風に、少しでも魚に対する知識を持っていた方が楽しめるのかな?

 そう思いながら眺めていると、見覚えのある魚を見つけた。

「あ、これ、ニモだ」

「あ、ほんとだ」

 男の子が言った、ルリスズメダイの水槽の横に、その魚はいた。

 細い体つきをして、絵の具で塗ったようなオレンジ色の体表には、三本の白と黒の線が走り、つぶらな目が、じっと僕を見ている。大きさは…八センチくらいか? 思ったよりも小さいな。

「すごいな、ニモって本当にいるんだ」

「名前はカクレクマノミだって」

「ああ、ニモって正式名称じゃないのか。そりゃそうか。」

「すごいよ、本当にイソギンチャクの中に隠れている」

「ていうか、イソギンチャクって動くんだ」

「これ、水流で動いているのかな? それとも、実際に動いているのかな?」

 その時、横から男の子の声がした。

「そうだよ! イソギンチャクは自分で動くんだよ!」

 向くと、さっきハタタテハゼやルリスズメダイの水槽を眺めて、嬉々とした声をあげていた男の子が立っていた。

「イソギンチャクはね、植物だって思われることが多いけど、実は動物なんだ! ええと、無脊椎動物なんだよ。わかる? 無脊椎動物って。骨が無いんだよ!」

「…ああ」

 別に求めていないのに、男の子は大きな声で説明を始めた。

「触手に毒を持っていて、敵から身を守っているんだ。じゃあ、どうしてクマノミが近づいて大丈夫なのかって言うと、クマノミの身体には、特別な粘液があるから、毒が効かないんだ。イソギンチャクは居場所をクマノミに提供している代わりに、クマノミが食べたもののおこぼれをもらっているんだよ」

 へえ…と、相槌を打とうとすると、その男の子の母親が飛んできて、「ごめんなさい。水を差してしまって」と言って、男の子を別の水槽に引っ張って行ってしまった。

 何も言えず、ぽかんとしていると、充希が僕の脇腹を小突いた。

「水を差してしまってごめんなさい。だって」

「カップルかなんかに見えたんだろうな」

「手を繋ぎ合っているんだから、明らかにカップルでしょうが」

 連れて行かれた先でも、男の子は嬉々として魚の説明をしていた。母親は「そうなの」「すごいねえ」と相槌を打っている。その後ろには、父親がいて笑いながら頷いていた。

 …家族か。なんだか、嫌な感じがして、身震いした。

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