第26話
ふと顔を上げると、僕は亡者に囲まれていた。
黒焦げになった母親。首を吊った父親。そして、血を吐く祖母。みんな僕を取り囲んで、恨みがこもった目で睨んでくる。
「…あ」
みんな、僕が殺してきた者たちだ。
僕が生まれてきたから、母が育児ノイローゼになって自殺した。
僕が生まれてきたから、父が生活に困窮して自殺した。
僕が生まれてきたことが、祖母にとってのストレスになって病死した。
僕のせいで、充希が死ぬ。本体である真琴も死ぬ。
まさか、この輪に、充希も加わる?
そう思った瞬間、僕は吐いていた。だが、喉の奥から出てくるのは、朝食と栄養剤と、胃酸だけだった。それでも吐いた。何度も吐いた。やがて何も出なくなり、その代わりとでも言うように、目から涙が零れ落ちた。
「おい…、ホタル、大丈夫か?」
痛みが和らいだのか、少し楽になった充希の声が聞こえた。
それでも僕はえづいた。床は胃酸と唾液と涙、そして鼻血でぐちゃぐちゃに汚れていた。
変わらず、亡者たちは僕を取り囲んでいる。
ダメだ、栄養剤が、栄養剤が欲しい。これさえ飲めば、こいつらは消える…。
僕は汚れた手を段ボール箱に伸ばした。当然、充希が手首を掴んで止める。
「…そこには、栄養剤は無いよ」
「だったら、買ってきてくれないか…」
「今日で、二本も飲んだんだろう? ダメだよ」
「ダメだ…、あいつらが、あいつらが…」
「だから…、落ち着いてよ」
「だったら、お前が、何とかしろよ!」
僕は唾をまき散らして言った。
「見えるだろ! 父さんが! 母さんが! ばあちゃんが! 僕を睨んでいる! 僕を殺そうとしている! お前、幽霊なんだから! わかるだろ! こいつら説得して! 何処かにいけって! 言えよ!」
「は?」
充希の声が裏返った。
「ホタルの両親? そんなのどこに…」
その瞬間、僕の頬を、焼け焦げた手が掴んだ…ような気がした。
熱いような、冷たいような、ざらざらしているような、すべすべしているような…。とにかく、そんな感じがした。
僕は悲鳴をあげると、頬を掴んだ手を払うために、腕をめちゃくちゃに振り回した。その拍子に、手の甲が充希の頬を捉える。鈍い感触がして、彼女の軽い身体が壁の方に転がった。
「ああああ! あああっ! あああああ!」
半狂乱になった僕は、逃げ出そうと足を出す。が、足に破片が突き刺さった。痛みで力が抜け、テーブルに顔面から突っ込む形で転ぶ。
顔を上げると、テーブルの上に赤い血が滴った。額の皮膚が裂けたのだ。足にも、破片が刺さって、靴下の上に滲んでいた。
止血している暇なんて無い。早く、早く逃げないと…。
鼻血を垂れ流しながら顔を上げると、目と鼻の先に祖母がいた。
ぱかっと開けた口の奥、喉の方で、ごぼごぼと血の泡が立っている。やがて溢れ出し、床に滴った。
「ああ…、うう、くそ」
叫ぶ気力はどこかに消え失せた。
お前が生まれなければよかった…。そう、頭の奥で響くような気がした。
僕は亡霊たちに土下座をすると、声を絞り出した。
「…ごめんなさい…。ごめんなさい…、生まれてきてごめんなさい…、生きていてごめんなさい…。助けて…、許して…、僕が悪かったです…」
そうやって、何もない壁に向かって謝り続けた。何十回と「ごめんなさい」と言った。
ほら、連れて行くんだろう? さっさとやれよ。地獄に落として、満足しろよ…。
嘔吐、出血で朦朧とした僕は、おもむろに手を伸ばし、床に落ちていた破片を拾った。
五センチにも満たない小さな破片を、首…頸動脈に押し当てると、一気に引き抜こうとした。
途端、誰かが僕の襟を掴んだ。
僕は、声にならない悲鳴をあげた。ついに、亡者が僕をあの世に引き入れようとしたのだと思った。
首を絞められながら上体を起こさせられる。
「ごめんなさい!」
そう言った瞬間、血と涙と唾液と胃酸でぐちゃぐちゃになった僕の顔は、柔らかいものに埋められていた。
「落ち着け」
充希の、懇願するような声。
「落ち着け、落ち着け…、大丈夫だから」
それは、充希の…、じゃなくて、真琴の胸だった。
見た目よりも大きくて柔らかくて、そして良い匂い。
「落ち着けよ。大丈夫だ…、ほーら、大丈夫」
充希は、僕の顔を胸に埋めると、窒息しそうな勢いで抱きしめた。背中に手を回し、赤子をあやすようにポンポンと叩く。
僕が暴れないと分かると、少しだけ力を緩めて聞いた。
「何を見た?」
「…母さん、父さん、ばあちゃん…。みんな、死んだ…」
「亡霊か…」
「死んだときの姿のまま…、僕を連れて行こうとするんだ…」
「栄養剤は、どういう意味だ? あれを飲んだら、何が起こるんだ?」
「あれを飲んだら…」
そうだ…早く栄養剤を飲まないと…。
「早く飲まないと…」
「大丈夫…。買ってきてあげるから。だから、教えて。栄養剤を飲んだら、何が起こるんだ?」
「母さんらの姿が…、見えなくなるんだ」
その答えに、充希はしばらく押し黙った。
「今まで、あれを飲んでいたのは、そういうことなのか?」
「あれが無いと…」
この期に及んで、僕の手は段ボール箱の方へと伸びていた。
充希はその手をやんわりと押し下げ、また抱きしめた。
「その、父さんらは、何処にいるんだ?」
「…僕を、囲んでいる…」
「そうか」
ふっと、充希が笑う声がしたかと思うと、彼女はわざとらしく明るい声で言った。
「ええと、あなたは、ホタルのお父さんかな? それで、あなたがホタルのお母さんですね。で、あなたが、ホタルのおばあちゃん。ごめんなさいねえ、ホタルが怖がっているんだよ。ちょっと、お引き取り願えるかな? いや、別に、消えろっていうわけじゃないんだよ。私だって幽霊だから、あんたたちのことは邪険に扱いたくないし」
それから、彼女は「ね? いいだろう?」「ええ~、それは了解しかねるよ」「じゃあ、こうしよう」「うん、じゃあ、また今度ね」と、何かと話していた。
そして五分が経った頃、恐る恐る聞いた。
「顔を上げなよ」
僕は充希の胸に顔を埋めたまま首を横に振った。
「怖いんだ」
「大丈夫だよ…」充希は何度も「大丈夫」と言った。「大丈夫。私が説得して、席を外してもらったから」
ほら、大丈夫…。そう言って彼女は、僕の顔を引きはがした。
恐る恐る目を開けると、確かに、三人の姿は消えていた。
「…いない」
「だろう?」
充希は肩を竦めると、僕の頬を伝う涙を指で拭った。
「酷い顔だ。洗ってきなよ。掃除は私がしておくから」
そう言う充希の頬は、青く腫れていた。
「ごめん」
「死んだときの痛みに比べれば大したこと無いよ。ほら、洗っておいで。私は後でいいから」
充希に促されるまま、立ち上がった。が、足に刺さった破片が痛み、膝から崩れ落ちる。
「足に刺さったの?」
「…うん」
「そりゃ、大変だ」
充希は、僕の足に刺さった破片を一本一本抜いた。その度に激痛が走り、血が流れ、僕は涙を流した。消毒を終えた充希は、また僕の頬を撫でた。
「よく頑張ったよ。ほら、顔を洗っておいで。なんなら、支えようか?」
「いや…、大丈夫」
僕は洗面所に向かい、顔を洗い、口を濯いだ。鼻血だけが止まらなかったので、トイレットペーパーで詰め物をしてからリビングに戻ると、散乱していた破片や栄養剤の液体、僕の吐しゃ物は一通り片付けられていた。
充希は、僕の間抜けな顔を見て、笑った。
「ああ、綺麗になったね。カッコいい」
今更ながら、羞恥心が湧いた。
半狂乱になって、泣き叫んで…、吐いて…。それを始末させた。何とも女々しくて、情けない姿を見せたものだ。まるで、身体の隅々を、充希に見られたような気がした。
「……くそ」
頬が、熱くなる。恥さらしだ。死んでしまいたい。
そう思った時、充希が僕の頬に触れた。何も怖くなんてないというのに、僕は「うっ!」と唸り、顔を引く。そしてまた、自己嫌悪に陥った。
「大丈夫だよ」
充希は静かに言った。
「なあ、仲良くしよう」
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