第25話
顔を上げると、段ボール箱を覗き込んだ。僕の不安は的中し、さっき飲んだやつで、丁度ゼロになっていた。
僕は蹴り飛ばされたように立ち上がると、テーブルの上に置いてあった財布を手に取った。
「うん? ホタル、出かけるのかい?」
「ああ、うん」
「何買いに行くの?」
「あ…、ええと…、米がそろそろ尽きるから、買い出しに行ってくる」
「わかった。じゃあ、私も行くよ。お米って重いから」
「…いや、僕一人で…」
「ホタル一人じゃ、途中で米袋に押し物されるオチでしょうが」
充希はからかうように笑うと、立ち上がって僕の額を小突いた。それから、スマホを返す。
「海沿いに水族館があったから、そこにしよう。路線バスで簡単に行ける。今日はカップル割りで三割引きだって」
「…ああ、そう」
「混み合うかもしれないけど、まあ、何とかなるでしょ」
楽観的に言った充希は、クローゼットに駆け寄り、ジャージを脱ぎ始めた。
彼女の白い背中をぼんやりと見ながら、僕は「ああ、どうしよう」と頭を抱えた。
栄養剤を買うタイミングを失った。いや、完全に失ったというわけじゃない。米を買うついでに栄養剤も買えばいい話だ。だけど、そうしたら充希に、「え…、また買うの?」と指摘されるに決まっていた。そして、こうも言われるのだ。「いくら何でも飲みすぎだよ」と。
僕の身体なんだから、別にいいだろう? と突っぱねるほど、僕は強い心を持ち合わせてはいなかった。
どうしよう…、また亡者たちが現れたら…。そう思うと、身体が震えた。
気休めにしかならないと思ったが、とりあえず、空になった栄養剤の瓶だけでも持っておこうと、テーブルの上に放置した瓶に手を伸ばした。
掴み、持ち上げた瞬間、手が滑った。
瓶は落下し、床に激突する。ガシャン! と砕けて、赤茶色の破片が四方に散らばった。
音を聞いて、充希が振り返った。
「大丈夫?」
「…ごめん」
「ああ…、割っちゃったね。すぐに片付けるから、ちょっと待ってね。セーター着させて」
充希は怒ることも無く、インナーの上から黒いセーターを着ようとしていた。
心臓が逸るのを感じながら、壁の方を見た。そこには、二本目に飲んだ栄養剤の瓶が置いてあったのだ。
それを取ろうと手を伸ばす。その時、ベランダの窓に人の気配を感じた。
結果はわかっているのだから、振り返れなければよかった。
いつものように、ベランダの物干し竿に、父がぶら下がっていた。
僕は小さな悲鳴をあげると、ベランダを凝視したまま固まった。
目を離すことができない。
今日は風が強い日で、父の死体は激しく揺れていた。
しばらくすると、その後ろに、黒焦げの母が立った。ひび割れた皮膚から血を流しながら、僕を睨んでくる。そして…、その後ろ。腰の曲がった老婆が…。
「くそ!」
僕は部屋の隅に置いてあった段ボール箱に飛びつき、手を突っ込んだ。当然、栄養剤は切らしている。それだというのに、「くそ! くそ!」と言いながら手を動かした。
無い。栄養剤が無い。何にも触れられない。
あれがないと、あの亡者どもを消すことができない。
このままじゃ、亡者たちが押し寄せて、僕の命を奪って…。
「くそ! ああ、クソ! くそくそ!」
錯乱した僕は、段ボールの底を引っ掻いた。紙が抉れて、爪の間に入る。
僕の異変に気付いた充希が、スカートを履きかけたまま飛んできた。
「おい、ホタル…、大丈夫か?」
「ああ、くそ! くそくそ! くそ!」
充希の声は僕の耳に届いたものの、構っている暇など無かった。
今はただ、あの亡者の姿から逃れるため、栄養剤を飲みたかった。
「ホタル! 落ち着け!」
充希が僕の肩を掴み、強引に振り返らせた。
その時、視界の端に窓ガラスの方が見えたのだが、ベランダにいたはずの母と祖母が、部屋の中に入っているのがわかった。
近づいてきている。という事実が、僕の錯乱を加速させた。
「あ、ああ…、あああああ…」
酸欠の金魚のように口をぱくつかせる。空の瓶を拾い上げると、部屋に侵入してきた亡者に向かって投げつける…直前で、充希が手首を掴んだ。
「おい! ホタル! 何をしてるんだ!」
「離せよ!」
消さないと。亡霊たちを、消さないと…。
その一心で腕に力を込めたが、すかさず、充希が瓶を取り上げた。
「落ち着け!」
「落ち着いてられるか!」
瓶を取り返そうと、充希に襲い掛かった。
「いい加減にしろ!」
バチンッ! と、頬を強く叩かれた。
痛みに怯み、よろける。踏ん張ろうとした瞬間、足を滑らせた。
「ホタル!」
破片に背中から倒れ込む…その直前で、充希が僕の腕を掴んだ。女性のものとは思えない力で引っ張られ、二人一緒に、壁際に転がった。
その拍子に、僕の肘が、柔らかいものに食い込む感覚がした。
そして、充希が「ううっ!」と唸る声。
「あ…」
充希が庇ってくれたことに気づいた僕は、すぐに彼女から離れた。
「ごめん…、大丈夫?」
「大丈夫…。ホタルの肘が、お腹に食い込んだだけだから」
充希は目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばると、腹を押さえて丸くなった。それから、小刻みに震え始める。
「お、おい…」
僕の肘が、腹に食い込んだって…。骨とか折れてないよな。
「…死なないよな」
「慌てすぎだろ。死にはしないよ」
「…ごめん」
痛い目にあったのは僕じゃないのに、膝から崩れ落ちると、床に手を着いて涙を落とした。
死んだわけじゃないのに、「僕が殺した」という確信が、心臓に噛みつく。
ふと顔を上げると、僕は亡者に囲まれていた。
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