第22話

「ホタル?」

 充希の声で我に返った。

 顔を上げると、パジャマの上にコートを羽織った充希が立っていた。

「…充希」

「大丈夫か? こんなところで蹲って」

「…充希こそ、どうして」

「いや、ホタルが出ていくのが見えて、散歩かな? って思ったんだけど、なかなか帰ってこなかったから…」

 彼女はしゃがみ込み、視線を合わせると、僕の冷え切った手に栄養剤を握らせた。

「もしかしたらって思って」

 悪霊のくせに、僕の行動を予想したのか…。ともかく、今は助かった。

 僕は栄養剤のキャップに指を掛け、捻ろうとした。が、やめた。

 僕の周りを取り囲んでいた亡者が、消えていたからだ。

「ありがとう。充希」

僕は栄養剤を彼女に返した。

「今は、まだいい」

「あ、そう? まあ、栄養剤の飲み過ぎはいけないからそれでいいんだけどね」

 彼女は受け取ると、コートのポケットにしまう。

「じゃあ、帰ろうか。朝ごはん作ってくれたんだよね。ありがとう」

「…うん」

 幼子を相手にするように、彼女は僕の手を握り、上下に揺すった。

「よくよく考えたら、私って、ホタルのご飯を食べるの、初めてなんだよね」

「…ばあちゃんに、叩きこまれたからな」

「え、ホタルって、おばあちゃん子?」

「…うん」

「そっか」

 充希は静かに頷いた。

「歳が違うとさ、価値観が違うから、結構大変だよね」

「…そうだな」

 その言葉に、なんだかほっとした。おかげで、口が緩んだ。

「なあ…、亡霊って、いると思う?」

「亡霊? もちろんいるでしょう」

充希はにこっと笑い、薄い胸をぽんっと叩いた。

「ここに」

「…いや、そうじゃなくて」澄んだ空気が漂う路地を見渡す。「あの世に行けない幽霊って、いると思うか?」

「もちろん、いるよ。お経をあげないとあの世に行けないからね」

「そうなのか?」

「うん、ちょっと違うけど、お経はあの世への通行許可みたいなものだから。ホタルたち生者が思っているほど、あの世のルールは甘くないんだよ。なすびの牛がないとあの世に帰れないのもそのためだね」

「…そうか」

 不思議だな。

 母が死んだとき、僕は参加できなかったが、ちゃんと坊さんがお経をあげている。父が死んだときもそうだ。葬式を開いて経を唱えた。当然、祖母が死んだときもだ。

 それなのに、どうしてあいつらは…、僕の元に現れるんだろう…。

「なあ、天国って、どんなところなんだ?」

「え、天国?」

充希は嬉しそうに振り返った。

「聞きたいかい?」

「いや…」

「秘密だよ」

「あ?」

 思わぬ答えが返ってきて、僕は変な声をあげて充希を見た。

 彼女が薄い唇に指をあてて、また「秘密」と言ったから、思わず鼻で笑う。

「なんだよ、秘密って。教えてくれてもいいじゃないか」

「知って何になるの?」

「そりゃ…、死ぬときの恐怖が軽減されるんじゃないのか? 少しぐらい心構えができるだろ」

「君たちが思うほど、あの世は怖いものじゃないよ」

 その言葉に、充希が過ごしてきたあの世の輪郭が見え隠れするようだった。

「すごく楽しいところなんだ」

「食べるのに困らないのか? 想像通りでつまらないな」

「いや、もっと楽しいところだよ。人間の想像を超えてくる、とても楽しいところさ」

 僕の想像を超える?

興味を持った僕は、目を見開いて充希を見た。彼女は「よしてよ」と肩を竦める。

「だからこそ、秘密なんだよ。天国は、生きることに励んだ者たちを迎える場所だ。今までの苦しみが全部、報われる場所なんだよ。ご褒美なんだ。だから、知らない方がいい。きっと、いざあの世に行ったときに、幸福が半減するからね」

「人の想像を超える、幸福ね…」

「死んだ人間が帰ってこないのはそのためだよ。帰る気すら失せる、楽しい場所だから」

 言った通り、想像がつかなかった。

 どんな場所だろうか? 空の上にあるのだろうか? それとも、地面にあるのだろうか? 摩天楼が立ち並び、そこにはなんでもそろっている。美味しい食べ物。読んでも尽きること無い小説。気の合う友人たち…。空も飛べるのだろうか?

 無意味だというのに想像して、そして、馬鹿らしくなった。

「無理だな」肩を竦める。「僕みたいな人間は、あの世には行けないよ。死んでもどうせ、地獄に落ちるか…、浮遊霊としてこの世を漂うだけさ」

「馬鹿言わない」

 充希が後ろから僕の頭を叩いた。

「まだ二十年しか生きていないんだ。ホタルが地獄に落ちるか浮遊霊になるかなんて、まだわからないだろう? 人間の寿命は約八十年! いや、これからの医学の進歩に期待して百二十年! 天国への切符を得るには十分な時間だよ」

「…いや」

 違うね。根拠があるんだ。

 そう言おうと思ったが、無意味な押し問答が始まるような気がして辞めた。

 後ろに、誰かが立つ気配がする。

「きっと僕は…」

 きっと僕は、亡霊に連れて行かれる運命なのだろう。ほんとう、くだらない人生だ。

 歩いていると、充希が「期待しない方がいい」と言った。

「期待しない方が、幸福は膨れ上がるものだからね」

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