第20話
雪の日から、一週間が経った。
その日はあまり眠れず、夜が明けた六時頃に目を覚ました。
隣を見ると、充希が安らかな寝息を立てている。昨日のアルバイトが遅晩だったから疲れているのだろう。
アラームを切って布団を出ると、台所に向かう。昨日のうちに充希が食材を切ってくれていたので、それを使って味噌汁を作り、それからだし巻き卵を焼いた。ウインナーも焼こうと思ったが、二本しか残っておらず、二人で分けるには少ないと思ったのでやめた。
支度を終えると、コートを羽織って、外に出た。眠気覚ましのつもりだった。
駐車場に下りて畑の方を見ると、充希と作った雪ダルマが、しっかり残っていた。足もとに、誰が備えたのか、饅頭が置いてある。これが夏なら、蟻が大量に群がっていたことだろう。まあ、その時には雪だるまも溶けて、そもそも備えることも無いのだが…。
近寄って、雪だるまの額を叩く。連日続く極寒日のためか、コンコン…と音がした。
少し散歩しよう。と思い、そのままの道路に出た。だが、「もし、亡者が現れたらどうしよう」と、不安が過ったので、近くにあった自販機で栄養剤を買った。
出てきた瓶をコートのポケットにねじ込み、歩き始める。
夜が明けてすぐの路地は、音すらも凍っているかのように静かで、肺の奥が熱くなる澄んだ空気が漂っていた。
道路の端にはまだ一週間前の大雪の名残が残っていて、靴で蹴ると、ゴリッという感触とともに、雪の塊が割れた。少し面白くなった僕は、人がいないことを良いことに、固まった雪を蹴って遊んだ。手ごろな破片を拾い上げ、地面に叩きつけることもしてみた。
そうやって道路を行ったり来たりしていると、身体が熱を持って、寒さを感じなくなった。
車のエンジンがかかったように、気力に溢れる。
もう少し歩いてみよう。そうしたら、何か面白い発見があるかもしれない。
そんなくだらないことを思い、歩き始めた。電柱に貼り付けられた選挙ポスターの顔を叩いたり、横たえたタンポポを突いたりした。
小学生の頃は、こうやって歩いたものだ。それぐらいしか娯楽が無かったのだ。
歩いていると、嫌なことをちょっと忘れる。体温が上がって、血がめぐる感覚。視界が少し明るくなって、息苦しさが消える。
思えば、真琴は歩くのが嫌いだった。僕が散歩に誘っても、「一人で行ってきなさいよ」と返されるだけだった。一人で行ったら行ったで、「そんな楽しいわけ?」と言われた。
…楽しいんだけどなあ。
歩いていると、ある民家の塀の上に黒猫が蹲っていた。そこはちょうど朝日が差す暖かいところで、黒猫は目を細めて微睡んでいる。
僕が近づいても、黒猫は逃げなかった。飼い猫だろうか?
恐る恐る手を伸ばし、その黒い毛を撫でてみる。だが、黒猫は逃げなかった。「なーご」と鳴いて、ぶるっと震えた。
面白くなった僕は、さらに黒猫を撫でた。
腰の方も撫でてやろうと思い、手を滑らせた時。
ガシャン! と、足元でガラスが砕けるような音がした。
音に驚いて、黒猫が逃げ出す。僕は足元を見る。
コートのポケットから零れ落ちた栄養剤が、粉々に砕けていた。
「…あ」
飛び散った破片、溢れ出した黄色い液体を見た時、百二十円を失ったことによる後悔と、「亡者が現れたらどうしよう…」という不安が、一瞬で僕の身体を取り巻いた。
泣きたくなった僕は、その場にしゃがみ込み、破片を拾った。慌てて拾ったために、すぐに指先に鋭い痛みが走った。
小さく唸って手を見ると、人差し指が裂けて血が滲んでいた。
血…。赤い血。なぜか、全身に鳥肌が立つ。
おもむろに顔を上げると、目の前に、腰の曲がった老婆が立っていた。
老婆が口を開けると、青紫の喉の奥から赤黒い血が溢れだした。滴った血はアスファルトで撥ねて、僕の膝に散る。濡れた感触はしない。
「…あ、ああ…」
僕は射られたように動けなくなる。
老婆は何も言わない。ただ立ち尽くして、赤い血を吐き続けるだけだった。
逃げることができず、その場で震えていると、老婆の後ろに焼け焦げた母が現れた。それから、首を吊った父も現れる。
三人は「お前のせいだ」とでも言うように、恨みのこもった目を僕に向けた。
僕は変な声をあげながら、冷たいアスファルトに額を押し付けた。土下座のつもりだった。
「…ごめんなさい、ごめんなさい…」
ああ、もう…、やめてくれよ。
そうだ、祖母が死んだのは、父が死んですぐのことだった。
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