第16話

 見ると、僕の手から落ちたプランターが、床の上で割れて、中の土が溢れだしていた。

 音に気付いた充希が振り返る。僕の足元に広がる惨状を目の当たりにすると、背後の老婆にも気づかず、慌てて駆け寄ってきた。

 咄嗟に、「ごめん」という言葉が溢れた。

「…ごめん、充希が大切に育てていたのに…」

「大丈夫? 怪我はないか?」

 充希はしゃがみ込むと、土が掛かった僕の足を愛おしそうに撫でた。

「切れてないか? プラスチックで本当によかった」

「…ごめん、カブ、ダメにしちゃったな」

「植え替えればいい話じゃないか。とにかく、怪我は無いの? そこだけはっきりしろ」

「…無いよ」

「よかったあ…」

 充希は顔をほころばせると、薄い胸を撫でおろした。

 真琴は、言ってくれないよな。こういうこと…。

 そう思い、ぼーっとしていると、充希が言った。

「それにしても、どうしたの? 手が滑った?」

「…いや、その、ゴキブリがいたんだ」

「え、ゴキブリ?」

 その場しのぎの嘘を真に受けた充希は、目を丸くした。

「この季節でも生きているんだね。すごい生命力だ。何処に逃げたの? 取ってあげよう」

 当然、ゴキブリなんていない。

「あ…、いや、どこ行ったっけ?」

「ええ…、見失ったの? 何しているんだ」

「ごめん、ゴキブリって速いから…」

「次に見かけたら私を呼ぶといい。殺してあげるから」

「…充希って、ゴキブリ掴めるの?」

「もちろん」

 充希は勝ち誇ったように笑った。その時、火に掛けていたやかんが、甲高い音を立てた。

「あ、湯が沸いたね。片付けたら一緒に飲もう」

 充希は台所に戻る。そこには相変わらず、口から血を流す老婆が立って、僕を睨んでいた。

 …まじで、やめてくれよ。ばあちゃん…。

 現実に引き戻された時、僕の真横に、首を吊った父が立つのが分かった。見ていないが、なんとなくそんな気がしたのだ。

 多分、後ろには、焼け焦げた母親がいるんだろうな…。

 僕は薄目をつぶりながら、傍にあった段ボール箱に手を入れ、栄養剤を引っ張り出した。パキン! と鳴らして開けると、喉になじませるように飲んだ。

 甘い味にむかつきを覚えながら顔を上げると、老婆も、父も、母も消えていた。

 急に栄養剤を飲み始めた僕に気づき、充希は怪訝な顔をした。

「…どうしたの? 風邪気味? 最近冷えるからね」

「…いや、そういうわけじゃないんだけど」

 栄養剤を飲めば、亡者の姿が見えなくなる。なんて、口が裂けても言えない。

「飲み過ぎはよくないよ。今日の朝も飲んでいなかったか?」

 火を止めた充希が歩み寄ってきて、頬を撫でた。

「汗、かいてるね」

「…そうかな?」

「この寒いのに汗だなんて、やっぱ、どこか悪いんじゃないの? 病院に」

「…大丈夫だって」

「でも」

「大丈夫だって!」

 半年ぶりに声を荒げた。充希がびくっとして、頬から手を離す。

自分でもびっくりして、すぐに、萎むように俯いた。

「…ごめん」

「まあ、そう言う日もあるから」

 毎日「そういう日」だというのに、充希はそう言って笑った。

「寝てなよ。土は私が片付けるから」

「いや、僕もやるよ」

 充希に心配ばかりさせるわけにはいかない。

「片付けたら、一緒に飲もう。僕もコーンポタージュがいい。それから、新しいプランターを買いに行こう…。ホームセンターに売っているはずだから。今度は…、充希の好きなデザインでいいよ」

 そう言うと、怠い身体に鞭を打って動き始める。

 床を掃除して、一緒にコーンポタージュを飲んで身体を暖めると、少し休んだ後、一週間前に買った色違いのコートを羽織って、手袋をはめて外に出た。 

灰色の世界に舞い散る雪は乾いていて、触れても濡れた感覚がしなかった。

「身体は大事にね」

歩きながら、充希が言った。

「私みたいになっちゃうからね。特に今日は寒い。暖かくして眠ろう」

「…お前は事故死だろうが」

「関係無いよ。交通事故に遭わないようにするのも、糖尿病にならないようにするのも。命を守る行動に変わりはないさ」

 身体を大事に。命を大事に。

 そんなこと、真琴は言ってくれなかったな。言及したとしても、「また栄養剤?」「あんた疲れているの?」「大して働いていないくせに?」「糖尿病で死ぬかもね」って、常に棘があった。

 僕だって、飲みたくて飲んでいるわけじゃない。栄養剤なんて甘ったるいし、のど越しは悪いし、それで「元気が出る」とは程遠い効果しかない。

 でも、これがないと、僕は永遠に、亡者を視界に収めてしまうのだ。

 首を吊った男。焼け焦げた女。そして、血を吐く老婆。

 原理はよくわからない。この栄養剤に含まれる、ビタミンB1やタウリンにお清めの塩のような除霊作用があるのか、それとも、僕が見ているものは脳にどこか障害があって、それによって見える幻覚を、これらの成分が抑える効果があるのかもしれない。後者だとしても、多分、プラシーボ効果だと思う。

 それでも、僕の心を保つためには、この栄養剤は必要不可欠だった。

「せっかくだから、今日カブを食べちゃおうか?」

「…カブを?」

「うん、さっき見たら、結構実が太っていたし、食べられないことは無いんだよね。味見も兼ねて、ちょっとだけ食べてみようか」

「…どっちでもいい」

「それが一番困るんだよなあ」

 充希は、あははと笑った。そして、顎に手をやり、「漬物にしようかな? サラダも良いんだけど…」と、もう夕飯のことを考え始めていた。

 カブか…。食べるとしたら漬物が良い。辛いのだけど、白ご飯と一緒に食べるよ、美味しいんだ。

「サラダにしようか。辛いから、きっといいアクセントになると思うんだ」

 充希がそう言った。

「サラダでいいかい?」

「…うん」

 僕は頷いた。すると、充希は何かに勘づき、言った。

「やっぱ、漬物にしてみる? 酢もあるから、さっとあえれば美味しくなると思うんだけど…」

 目を丸くすると、彼女はにやっと笑った。

「顔に、『サラダは嫌だなあ』って出てたよ」

「いや、サラダがいい」

「素直じゃないなあ」

 充希は楽しそうに笑うと、雪が付いた僕の肩をポンポンと叩いた。それから、じゃれるように、僕に身を寄せた。

「ホームセンターに行ったら、他の種も見てみよう。花もいいと思うんだ。」

「…うん」

「っていうか、冬に植えて芽が出るのかね。いや、植物の生命力を舐めちゃダメだね」

「一人で何言っているんだ?」

 そう言えば、一度、真琴の誕生日に、花屋でささやかな花束を買ってプレゼントをしたことがある。もちろん、それだけじゃなく、彼女が読みたいと言っていた小説も一緒に添えた。

真琴は「これだけ?」と僕のプレゼントのセンスを嘲笑うように言った。だけど、プレゼントの小説を読んでいる時の彼女の目は、どうしようもなく輝いていた。でも、花束には全く手を付けなかった。小説を読み終えると、「ありがとね」と言って、早々に帰ってしまったし、後日生け花にして持って行っても、受け取ってはくれるのだが、水替えをせずにすぐに枯らしてしまった。

 真琴に比べて、充希はどんな生き物にも愛おしさを感じる。玄関で飼っている金魚はもちろん、今日僕がお釈迦にしてしまったカブにも、赤子をあやすかのように声を掛けていた。

 当然、僕にも…。

「ホタル? 大丈夫かい?」

 顔を上げると、充希が覗き込んでいた。

「考え事か?」

「ああ、まあ」

「どんなことを考えていたの?」

「…悪霊になんか教えない」

 僕はそう言うと、足を速めた。

 充希は意に介さず、むしろ嬉しそうに笑って僕の横に並ぶ。

 こうやって一緒に歩くことも、真琴はしてくれなかった。したとしても、いつも眉間に皺を寄せて、嫌そうな顔をしていた。

「まあ、自分の心のことなんて人には知られたくないものか」

「…うん」

「でも、もうちょっと、優しい言い方をしてほしいなあ」

「…どうだか」

「ね? 良いだろう? まだ半年以上は一緒にいるんだ」

 空の色は灰色。吹きつける風はナイフを仕込んでいるかのように鋭い。周りの音を吸収する雪は真っ白で、舌先に触れると、心なしか甘かった。

 真琴の姿をした充希はグレーのコートを纏っている。僕は黒のコート。二人とも、同じメーカーのものだった。

「だから、もう少し、仲よくしようよ」

 充希が言った言葉に、僕の唇がかすかに動いた。

 何を言ったのかは、自分でもわからない。

 多分、舞い散るこの雪が、吹きつける風が、かき消してくれたのだと思う。

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