第17話
カブを酢漬けにして、それを肴に一本の缶ビールを楽しんだ。それから、プランターに土を入れて、肥料を混ぜ、そこに、エンドウの種を撒いて水をやった。充希が「元気に育ってね」と土に話しかけていたので、僕も真似をして、「元気に育てよ」と言ってみた。これで何かが変わるとは到底思えなかったが。
その次の日だった。
「ねえ! ホタル! ねえ、ねえってば!」
ぬくぬくの布団で眠っていると、充希が肩を揺さぶって起こした。
僕は寝ぼけ眼を充希に向けた。
「…なんだよ」
「見なよ! すごいよ!」
近所迷惑も顧みず、充希は軽く飛び跳ねながら窓の外を指した。僕も首を擡げて見ると、曇ってわかりにくいが、向かいの家の屋根瓦が白く染まっているのがわかった。
まさか…と思い、跳び起きる。一緒に窓に駆け寄り、開け放つと、風さえも凍るような極寒がそこにあった。サンダルを履いてベランダに出て、身を乗り出すように真下を覗き込む。
道路も駐車場も、何もかも昨夜のうちに降り積もった雪が覆い、白に染め上げていたのだ。
まさか積もるとは思っていなかった僕は、ただただ驚くだけだった。
充希が、僕のパジャマの袖を引っ張った。
「着替えて外に出よう。雪だるまでも作ろう」
「…いや、大人になっても、そんな餓鬼みたいな…」
「私にとっては、五年ぶり…、いや、生前もそんなに見ていなかったから、十年ぶりくらいの雪なんだよ」
充希はそう言ってにかっと笑うと、パジャマを脱いでジャージに着替え、その上にウインドブレーカーを着た。ゴム手袋をはめて、しゃかしゃかと足踏みをする。
「ほらほら、溶けないうちに早く!」
「…ああ、もう」
「あ、ホタルって、風邪気味だったっけ? 大丈夫?」
「…それは大丈夫だよ」
「じゃあ、行こう!」
「ああ、もう」僕は頭を抱えた。「…僕はやらないからな。見ているだけにする」
僕もウインドブレーカーを着て、彼女と一緒に銀色の世界へと飛び出していった。
階段を降りて気づいたのだが、雪はくるぶしくらいの高さまで積もっていた。こんな状況じゃ車で走る人もおらず、向かいの道路は半紙のようにのっぺりとしている。足跡も無い。なんだか得したような気分になった。
宣言通り、僕は何もしなかった。塀の上に腰を掛け、充希がはしゃぐのを見ていた。
充希は、ゴム手袋をはめた手で雪を掬い、その軽さと柔らかさ、冷たさに目を輝かせていた。
「うわ! 雪ってこんな感じか! すっかり忘れていたよ!」
「そりゃよかったな」
「ねえ、ホタルも触りなよ。すごく不思議な感触がする」
「冷たいのは嫌いだ」
「つれないなあ」
充希は雪を手で押し固め、表面を拭って形を整えた。
僕の方を向いてにやりと笑うと、振りかぶって、投げる。
「うわ!」
僕の顔面に、飛んできた雪玉が直撃した。意外に痛く、よろめいて塀から落ちそうになったのを、何とか踏みとどまる。
「…おい、危ないだろ」
「ごめんごめん」
充希は、申し訳ないと思っている様子を見せず、次の雪玉を作ろうとしゃがみ込んでいた。
塀から落とされても敵わないので、僕は仕方なく地面に降りた。さくっとした感触が心地いい。でも、ちょっと冷たい。
癪なので、応戦しようと雪を掬った。なるべく強く押し固め、堅く重い雪玉を作ると、充希に向かって振りかぶった。だが、すぐにやめた。
充希が僕の方を見向きもせず、せっせと、大きな雪玉を作っていることに気づいたからだ。
「…おい、何している?」
「ホタルを倒すための雪玉」
「お、やるのか」
また持っていた雪玉を構えた。
「嘘だよ。雪だるま作っているんだ」
そう言って、ぽんぽんと雪玉を叩く。
「ホタルも手伝ってくれよ。その、手に持っている雪玉を使ってさ」
「…わかったよ」
断る理由が見つからず、僕は頷いてしまった。
僕たちはアパートの駐車場の奥、誰も使っていない畑に移動すると、その周りの雪を使って、雪だるまを作ることにした。これだけ雪があるんだ。外国の絵本に出てくるような、大きめのものがいいと思い、奮闘した。
形を整えるために押し固めていくうちに、雪玉はどんどん堅く重くなった。向きを変えるだけでも重労働で、ウインドブレーカーの下の肌に汗が滲むのが分かった。
そうして作り続け、二十分が経った頃一人じゃ動かせなくなった。
「…充希、そろそろ限界だ」
「だねえ」
それに、雪を掬っている内に、黒い地面が見え始めた。このままやると、雪玉に砂が混じって、見てくれが悪くなると思った。
僕が作った大きい方の雪玉を、協力して畑の上に乗せる。最期の仕上げとして形を整えると、その上に、充希の雪玉を乗せた。上から軽く体重を掛けると、二つの雪玉は一瞬で結合し、ちょっとやそっと押しただけでは倒れなくなった。
大きさは、僕の胸くらい。
「うん! よくできたね!」
充希は腰に手を当てて、満足そうに笑った。寒さで顔は赤く染まり、毛先に雪が付いて白っぽくなっている。
どうしてかわからないが、僕はこの女の子を、今すぐ熱々の湯に放り込みたいと思った。
「なあ、充希、そろそろ部屋に入ろう」
「ああ、でも、顔が無いのは寂しいのか…」
「顔なんてどうでもいいだろう」
「せっかく作ったんだし、最後までこだわりたいな」
「じゃあ…何をする? 石でも埋め込むか?」
充希を早く暖房の効いた部屋に連れて行きたくて、僕は辺りを見渡した。
その時、背後で声がした。
「あのー、これ、使いますか?」
振り返ると、そこには、半纏を羽織った、三十代くらいの女性が立っていた。
確か、三階の角部屋に住んでいる会社員だ。しゃべったことは無いが、僕がバイトに行くときに、よく顔を合わせて会釈をする。
女性の手には、砂遊び用のバケツが握られ、その中に人参とビー玉が入っていた。
「これ、良ければ、雪だるまの顔に…」
「あ…」
思わぬ提案に、僕はどうしていいかわからず充希の方を見た。
「いいんですかあ?」
充希は大げさに喜ぶと、女性からバケツを受け取った。
「うわ、すごいですね。やっぱ、雪だるまには人参とバケツですよね」
「…そうだと思って」女性は嬉しそうに笑った。「急に話しかけてごめんなさいね。窓を開けたら、あなた達が仲良さそうに雪だるまを作っていたから…、つい、手助けをしたくなって」
「あ、見てたんですか? なんか恥ずかしいですね」
「いえいえ、すごく、微笑ましくて」
のっぺらぼうだった雪だるまの鼻の部分に、ニンジンを突き刺す。それから、目の部分にビー玉を埋め込み、てっぺんにバケツをかぶせた。落ちていた木の枝を拾い、胴に突き刺して完成。今に動き出しそうなくらいに可愛らしくなった。
「…らしくなったな」
「そうだね、すごく可愛いよ」
完成した雪だるまを満足してみていると、後ろで見ていた女性が言った。
「失礼な話かもしれませんが、私、あなた達が仲良くしているのを見て、すごくうれしかったんです」
「え…」
「だってほら…、その」言い淀みながら続けた。「前に見た時は、彼女さんはすごくむすっとしていて、彼氏さんの方も、怖がった様子だったので…、あまりうまくいっていないのかな? って思っていたんです」
言った後で、女性は慌てて頭を下げた。
「すみません、プライベートに踏み込むようなことを言って…。三十路のたわごとだと思って忘れてください」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
充希は笑うと、ゴム手袋を外した手で、僕の頭を撫でた。
「多分、その時はたまたま、喧嘩をしていたのだと思います」
「…そうですか」
女性はほっとしたように笑った。
「仲直りしてよかったです。バケツも人参も、ビー玉も返さなくて結構ですから、どうぞ、これからも仲良くしてください」
「はい、もちろんです」
充希の声は、澄んだ空気に、凛と響いた。
僕たちは女性に礼を言ってから部屋に戻ることにした。
「いやあ、楽しかったね」
「…そうだな」
「また降ったらやろうよ」
「…そうだな。今度は、雪合戦もいいかもしれない」
そう、心に思っているのかどうかわからないことをつぶやき、階段を上る。
その時、何か嫌な予感がして、僕は振り返った。
階段から駐車場端の畑が見えるのだが、そこにある雪だるまの横に誰かが立っているのがわかった。
ああ…、なんでだよ。と思い目を逸らす。だけど、すでに僕の網膜には、雪だるまの横に立つ、黒く焦げた母の姿が、鮮明に焼き付いていた。
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