第13話

 気が付いたとき、僕はショッピングモールの入り口横にあるベンチに腰を掛け、自販機で買った栄養剤の瓶を握りしめて蹲っていた。

 もう、三人の亡者はいない、それなのに、顔を上げることができなかった。

 ざっざ…と足音が近づいてくる。

「おい、ホタル」

 真琴…じゃなくて、充希のため息交じりの声が聞こえた。

「ほら、顔をあげなよ」

 冷たい手が、僕の頭を撫でた。その感触に安心した僕は、ようやく顔を上げた。そこに立っていたのは、口から血を吐く亡者…とはならず、ちゃんと、真琴の姿をした充希だった。

 充希は買い物袋を掲げると、左手に握っていたお釣りを僕の手に握らせた。

「買ってきたよ。ありがとうね」

「…うん」

「体調、悪いのかい?」

「…いや」

「だって、栄養剤を飲んでいるし…、それに、顔色、めちゃくちゃ悪いし」

「…そんなことないよ」

 充希に心配されることがなんだか恥ずかしくて、僕は首を横に振った。

「…僕は、大丈夫だ」

「いやいや、血管にブルーハワイシロップ注射したんじゃないか? ってくらいに青いよ。大丈夫か? クーラーで冷えたのか?」

 そう言って、充希は僕の額に手を当てた。

「うーん…、熱は普通か…」そのまま、僕の頬を撫でる。「とにかく、早く帰ろうか。ごめんね。無理をさせたみたいで」

「…別に」

 栄養剤を飲んで幾分かマシになっていた僕は、ゆっくりと立ち上がった。充希が持っている買い物袋に手を伸ばしたが、すかさず、彼女は引いて触らせないようにした。

「私が持つよ。大した重さじゃないし」

「…いや、僕が持つよ。僕は、彼氏だし…」

 その言葉に、充希が嬉しそうな顔をする。

「勘違いするなよ…、あくまで、真琴の彼氏なんだ…」

「ああ、そう。でも大丈夫。本当に大丈夫。だから、ホタルは楽にしてなよ」

「…いや、でも」

「なんたって、私は、ホタルの彼女だから。勘違いするなよ。あくまで、真琴ちゃんとしてだから!」

 よくわからないけど、何も言えなくなった。

 シャトルバスを待っている間、僕はずっと俯いていた。顔を上げると、またあの亡者たちが僕の前に姿を現すんじゃないかと思ったからだ。栄養剤は飲んだはずなのに、そわそわして落ち着いてられなかった。

 シャトルバスに乗り込み、充希と隣り合って座った。

「大丈夫か?」

 充希はたびたび、僕の体調を心配した。いつの間にかミネラルウォーターとキャンディーを買っていて、僕に持たせてくれた。おかげで、さらに気分はよくなった。

 電車に乗り込んだ時、充希はおもむろに言った。

「本当はね、また別の日でもよかったんだよ」

「…買い物か?」

「うん。だけど、思い立ったら、なんだか楽しくなってね。ほら、言うじゃないか、『思い立ったが吉日』って。とにかく、動いて見たかったんだ」

 充希は静かに、「ごめんな」と言った。

「だって、五年ぶりの現世だもん。あまり回れなかったけど、楽しかったんだよ…」

「…うん」

 僕はなぞるように頷いた。

 充希は、犬をあやすみたいに、僕の頬をずっと撫でていた。

「帰ったら休もう。無理をさせて悪かった」

「…別に、無理なんかしていないさ」僕は充希の手を払った。「これが平常運転なんだよ。これが、いつもの僕だよ。わかったら、変な気を使わないでくれ…」

 少し考えてから言う。

「…気持ち悪いから」

 充希は意に介さず頷いた。

「じゃあ、帰ったら、水槽の準備をしよう」

「うん」

「きっと、綺麗な水槽になるよ」

 宣言通り、僕たちは帰宅後、水槽の設営に取り掛かった。

 金魚を安全な場所に移動させ、棚にあったメラミンスポンジで、水槽の苔をすべて拭った。ろ過材も、すべて新しいものに交換した。今日買った砂利を、試行錯誤しながら小高く積み上げ、その上に城のオブジェを置く。水草は、鋏で長さを整えながら、森っぽくなるように置いていった。バックスクリーンはまたの機会に。

 カルキを抜いた水を入れて適温になるまで待ち、そして、ようやく金魚を入れた。

 城自体の出来が良かったため、なかなかリアルな仕上がりだと思った。ただ、ろ過装置がなんだか目障りで、今度、城のオブジェの下に仕込めるタイプのものを買おうと思った。

 照明を取り付けて、完成。

「なかなかいいじゃないか」

 充希はうっとりとした目で、出来上がった水槽を眺めた。

「でも、身の回りのものが変わったおかげで、金魚が緊張しているね」

「…そうだな。ずっと、城の裏に隠れてじっとしている」

「大丈夫かな? ストレスで死なないかな?」

「できる限りのことはやったんだから、きっと大丈夫だろ」

 僕はガラスに付いた水滴を拭った。

 綺麗に設営できたはいいものの、次の水替えが大変そうだな。また一から設営しないといけない。とくに、溝の多い城にこびりついた苔を取るのが。

 まあ、その時はその時か。

 一仕事終えた僕は、昼寝でもしようと振り返った。

 その時、視界にトイレの扉が映るのだが、扉の擦りガラス越しに、黒い陰が見えた。

 シルエットでわかる。首を吊った男だ。

 ああ、くそ。

 たった一瞬、首を吊った男の亡霊を視界に収めただけで、僕の心臓は、爆発するんじゃないか? ってくらいに高鳴った。そして、皮膚表面に寒気が走る。

「…ご、ごめん」充希に話しかけたが、上手く言葉にできなかった。「つつ、疲れたから…、ちょっと、ねむ、眠るよ」

「ああ、うん。休むといいよ」

 充希は金魚を眺めながら頷いた。

 僕はリビングに走ると、箱に入っていた栄養剤を取り出し、一気に飲み干した。キャップも締めずにテーブルに置き、そのまま、座布団を枕にして横になった。

 目を閉じたが、四方八方から誰かに見られているような気がして怖くなり、わが身を抱いて、小さく丸くなった。

 誰かに見られている。恨みのこもった目だ。「お前のせいで死んだ」「お前なんて産むんじゃなかった」「お前なんて引き取るんじゃなかった」…。そう言っているようだった。

 …頼むよ。消えてくれよ。怖いんだよ…。

「おい、大丈夫か?」

 どうしようもなく震えていると、充希の声が上から降ってきた。かと思えば、柔らかいタオルケットが肩に掛けられる。

「寒いの? クーラー消そうか? あ、インフルエンザとかじゃないよな? 関節の痛みとか無いよな? 本当に無理だったら、病院に連れて行くけど…」

「…大丈夫」

 僕はそう絞り出した。

「…少し眠ったら、治るから」

「そうか」

 充希は笑うと、僕の後ろに横になった。腕を回し、冷たくなった僕の手の上に、そのしなやかな手を重ねる。ぽんぽんと、あやすように叩いた。

「よくわからないけど、眠ったらよくなっているよ。きっと」

「…悪霊に言われなくたって、わかっているさ」

 そう言ってから、僕は眠った。

 亡者の気配は、感じなかった。

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