第10話

【現在】

「なあ、起きなよ」

 肩を揺さぶられて、僕は悪夢から目が覚めた。

 目を開けてみると、真琴…じゃなくて充希が見下ろしていた。僕のTシャツとジャージを勝手に着て、樟脳の匂いが染みついたエプロンを掛けている。

 味噌汁の匂いが、鼻を掠めた。

 充希が僕の汗ばんだ頬を撫でる。

「怖い顔だね。嫌な夢でも見たかい?」

「…見たね」

「どんな夢?」

「悪霊が、僕の彼女に憑りつく夢…」

「夢ならよかったね」

 充希はそう言って、意地悪そうに笑った。

 ベランダの手すりに止まった、早起きのスズメらがチュンチュンと鳴いている。

 その鳴き声に目が冴えた僕は、今の状況に違和感を覚え、がばりと起き上がった。

「おい、なんでお前がいる」

「なんでって…」充希は肩を当たり前のように言った。「私たち、恋人同士じゃないか。彼女が彼氏の部屋に入るのは…」

「いや、なんで部屋に入れているんだよ。合鍵ないだろ」

「ああ、開いてたのさ」

 顎で玄関の扉を指す。そして、寝ぐせでぼさぼさになった僕の頭を撫でた。

「防犯はしっかりな。変な奴に入られたら危ない」

「…ああ、お前みたいな悪霊に入り込まれたら危ないだろうな」

「いうね」

 真琴の姿をした充希は、意に介す様子も無く笑った。そして、流れるように身を寄せると、僕の頬にキスをした。真琴じゃ絶対にしない行為に、背筋が冷たくなる。

「何をする」

「ご飯作っているから、食べよう。歯を磨いてきて」

 そう言われて耳を澄ませると、台所の方から、ことこと…と、味噌汁を煮込む音がした。

 それだけじゃなく、目玉焼きの香ばしい匂い。炊き立てのご飯の香り。

 目覚めで空っぽの腹が、ぐううう…と鳴った。

 充希に聞こえていたようで、彼女は笑った。

「お腹空いているんだろう? ほら、食べよう」

「誰が…、お前となんか」

「気持ちはわかるけどさ、もう約束したんだ。そろそろ割り切ってほしいね」

「割り切るとかじゃないんだよ…」

 真琴の姿をしたやつが、真琴じゃ絶対にしないようなことをするんだ。頭では「こいつは真琴じゃない」とわかっていても。そう言い聞かせていたとしても、本能的に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

「…慣れないんだ」

「だから、慣れるように努めているじゃないか」

 充希はにこっと笑う。

「君の彼女の身体を借りている身、何もしないわけにもいかないよ。だから、こうやって、それ相応のことをするわけだ」

「…家賃代わりにご飯を作ってくれているのか」

「それだけじゃないよ。朝起こしに来てあげるし、おはようのキスだってお手の物。その気になれば、キスのその先だって経験させてあげるよ」

「やめろ。不快だ」

「じゃあ、真琴ちゃんみたいに振舞えばいいのかい?」声が潜まった。「部屋に遊びに来たってゴロゴロするだけ。何をするにしても文句を垂れ流す。君のことなんて、腰巾着程度にしか思っていない真琴ちゃんのようにすればいいと?」

「…やめろよ、不快だ」

 僕は頭を汗ばんだ頭を抱えた。

「真琴じゃない奴に、真琴みたいに振舞うだなんて、それこそ不快だよ」

「じゃあ、割り切るしかない、慣れるしかないね。仲良くしようよ」

 充希はそう言い切ると、僕の額をぺしっと叩いた。

「私のことは、『真琴によく似た別人』って思えばいいさ。そうだ。そうしよう。私は、君の二番目の彼女なんだよ。君は一人目の彼女の面影を忘れることができずに、真琴ちゃんによく似た私に手を出した哀れな男なんだ。そう言う設定で行こう」

「うん、やめろ」

 勝手に、僕を哀れな男にしようとする充希を睨むと、その手を払いのけた。

 その時だった。

 充希が「あはは! すまないね」と笑って顔を逸らした時、奥の玄関が見えたのだが、扉の前に、スーツ姿の男が首を吊っているのがわかった。

 首を吊った男が、混濁した瞳で僕を見ている。

 咄嗟に顔を逸らす。

「うん? どうした?」充希は首を傾げて、僕の顔を覗き込んだ。「急に目なんか逸らして…、そんなに私の顔が不快かな?」

「ああ、不快だよ」

 首を吊った父が見えた。なんて言うのは憚れたので、そう言うことにした。

「だから、さっさと…」

 出て行ってくれ。とは言えなかった。充希が、玄関にいる男と鉢合わせるが面倒だったというのもあるが、せっかく家に来て、僕のために朝食を作ってくれたのだ。鬱陶しいものの、そこには確かに「厚意」があった。それを無下にするほど、僕は落ちぶれてはいなかった。

「だから、さっさと…、ご飯…」

「うん?」

 充希は僕の言った言葉を反芻した後、笑った。

「ああ…。わかったよ。君も素直じゃないね」

 立ち上がると、台所に戻って朝食の支度を始める。その隙に、僕は段ボール箱から栄養剤を取り出し、一気に飲んだ。

 飲み干してから玄関を見ると、そこにいた首吊り男はどこかに消えていた。

 僕は安堵の息を吐き、洗面所に向かうのだった。

 身だしなみを整えてリビングに戻ると、充希は折り畳みテーブルの上に、作った朝食を並べ終えていた。ふっくら白ご飯、具沢山味噌汁。半熟目玉焼きに、高菜の漬物。

「ほら、食べよう」

 促されるまま、充希と向かい合って座った。

「五年ぶりにご飯を作ってみたけど、やっぱり楽しいね。ああでも、やっぱり感覚を忘れていたから、指先を包丁で切った。深くないけど、ごめんよ」

 おい、真琴の身体に傷を付けているんじゃないよ。と思ったが、いちいち怒って指摘していたら、身が持たないような気がして飲み込んだ。

 気を紛らわせるように、話題を変える。

「…生前も、料理はできたのか?」

「そりゃあ、できたよ。でないと生きていけないんだもん。卵料理は必死こいて勉強したね。それでも、未だに卵焼きは上手に巻けない…」

「生きていけないって…。お前、いつ死んだんだよ」

「ああ、誤解しないでくれ。別に、食べ物が貴重な時代に産まれたわけじゃないし」

「じゃあ、人間換算なら何歳だよ」

「女性に歳を聞くのはいただけないね」

「いや、お前幽霊じゃないか」

「屁理屈が上手いこと」

 充希はふふっと笑う。そんなふとした顔も、真琴は見せたことは無かった。

「大丈夫。君とは釣り合う年齢だから」

「なんだそれ」

 まあ、いいか。

 食べようと、箸に触れようとした時、それが見知らぬものだということに気づいた。

「あれ…、こんな箸、あったっけ?」

 赤くてラメが施された箸を掴み、充希に聞いた。

 彼女は「いいだろう?」と嬉しそうに言った。

「綺麗だったから買ったんだよ」

「買ったんだ」

「まあ、もちろん、その分バイトをするからね。別にいいだろう? 料理は食器もこだわってなんぼだよ」

 食器にもこだわる…か。真琴はこんなこと言わないよな。って思う。

 彼女は料理に限らず、何もかもどうでもいいようにふるまう女だった。

総菜を買ってきても、皿に出そうとしない。フライドチキンを食べるときも、指が汚れるのをお構いなしで、外紙を剥いで食らいつく。べたついた手で、スマホに触ろうとする。靴下も裏返して脱ぐ。人のこと「気持ち悪い」と言う癖に、恥じらいが無いから、平気で僕の前で裸になってシャワーを浴びる。

 怠惰ではあったが、好きな小説は、彼氏の僕よりも大切に扱った。読む前に石鹸で手を洗い、読んだ後はカバーと帯を整えて、ブックケースに仕舞う。勝手に触ると怒る。でも、許可を取れば貸してくれる。ネタバレなんて悪質なことはせず、僕が読み終えるまで、後ろで静かに待っていた。

思えば、そういう一面のおかげで、僕は彼女に失望しなくて済んでいたのだろう。

 思えば、そういう他面のせいで、僕は、苦しみ続けていたのだろう。

「どうしたの?」充希が言った。「箸、気に入らなかったかい? 強制はしないけど」

「…ああ、うん、使うよ」

 僕は座り直すと、箸を握り、一思いに黄身に突き刺した。ぷつん…と表面の皮が破れ、とろっとした半熟黄身が流れ出る。

「ああ、そうだ、半熟って大丈夫?」

「…大丈夫。だけど、堅い方が好きかな」

「そう。わかった。じゃあ、次からはそうする」

 半熟も嫌いではないから、三回に一回くらいは半熟で焼いてほしい。

 声には出なかったが、唇が言葉をなぞった。

 食べながら、充希が聞いてくる。

「美味しい?」

「うん、美味しいよ」

 ああ…面倒くさい。

 それからも、僕と、彼女に憑いた幽霊の、奇妙な生活は続いた。

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