第8話

 あの日起こったことを言った女は、身体の力を抜いた。

「というわけで、あの世に帰れなくなった私は、近くにいた君の彼女…朝霧真琴ちゃんに憑いたというわけだ。理解してくれたかな?」

「ああ、わかったよ…」

 自分に非があると分かった瞬間、あまり強気でいられなくなった。でも、反論はする。

「でも、なんで真琴に憑く必要があったんだよ。そのまま空を漂っていればよかっただろ」

「そういうわけにはいかないんだ。いいかい? 思考するのは脳だよ。でも、幽霊に、『脳』という器官は存在しない。魂そのものだからね。だから、長いこと魂の状態で現世を彷徨っていると、自我を失うんだよ。自分が何をしているのか、どうして死んだのか、どういう名前だったのか…。ほら、悪霊とかいるだろう? あれはそういうやつらの集まりさ」

「肉体に入っていないと、自我を保てないってことか」

「そういうこと。私だって、彼女の肉体に憑くのは心が痛んだよ。だけど、やっぱり我が身が可愛いんだ。悪霊になるのは御免だからね」

 お盆の時期に現世に戻ってきた女は、あの世に戻ろうとした。だけど、僕がナスビの牛を破壊してしまったために、戻ることができなくなった。このままでは、自我を失い悪霊になってしまう。だから、応急処置として、近くにいた真琴に憑いた…。

 まとめると、こういうことか…。

「一応聞くけど…、定住するつもりは無いよな」

「もちろん」

「だったら、すぐに乗り物を作るよ。ナスビ買って、折った割り箸を突き刺すだけでいいんだよな。それくらいなら…」

「それでいいんだけど、今は戻れないよ」

 女は笑い、肩を竦めた。

「だって、もうお盆の時期を過ぎたんだ。あの世への扉は閉じられた」

 嫌な予感がした。

「おい…、じゃあ」

 青ざめる僕を、女は手で制した。

「落ち着いて。だから、定住するつもりはないって言っただろう?」

「でも…」

「次にあの世への扉が開かれるのは、一年後。来年のお盆だ」

「だから、それが問題だって言いたいんだよ!」

 悪いのはじぶんだ。それなのに、怒りがこみ上げ、怒鳴っていた。

「ってことは、一年間、お前は真琴の身体を乗っ取るってことだろ!」

「そういうことだよ」

「できるわけがない! 一年間も、真琴を…、得体のしれない幽霊なんかに…」

「君の気持はよくわかる。私だって、君の立場ならそう言うだろう」

「だったら、気持ちを汲んで…」

「だから、君も私の立場になって考えてほしい」

 僕の声を遮って言った女の言葉に、はっとする。

 女は背筋を伸ばして正座をすると、少し乱れた髪を整え、額を床に押し付けた。

「お願いします。私は、あの世に帰ることができません。一年間で良いです。一年間だけ、この子の身体を貸してください」

「い、いや…」

「もちろん、この子の身体には何もしません。何も、危害は加えません…。私は幽霊ですが、元は必死に生きていた人間です。人間だったからこそ、時間の大切さは承知です。ですが、幽霊にも、あの世へと戻る権利があることを…忘れないでください」

あまりにも清々しい土下座を目の当たりにして、僕は何も言えなくなった。

「お願いします」

 僕は歯を食いしばり、斜め下を見た。

「わかったよ…。でも、許可は出せない」

 本当に、申し訳ないと思った。

「それは、真琴の身体だからだ。許可は、彼女が出すことだ」

「…残念ながら、彼女の魂は眠っている。聞くことができないんだ」

「だったら…」

「真琴ちゃんに聞けない状況だからこそ、君からの許可が欲しい。君は彼女の恋人なんだ。恋人を愛おしく思うのなら」

 僕が、真琴の恋人だって? ああ、やめてくれ。僕はそんな立派な人間じゃない。

 僕のようなつまらない男が、真琴の貴重な「一年」を扱うことなんて、到底できないんだ。

「これは究極の選択なんだろうな。お前のナスビを壊してしまった僕も悪い。そして、勝手に人間の身体を奪ったお前も悪い…。だったら、僕はやっぱり、真琴が大事だと思う。知り合ってすぐの、得体のしれない幽霊に、彼女の一年を差し出すことなんて、できないよ」

 本当に、悪いと思っている。

「だから…」

「嫌だって言ったら?」女が僕の言葉を遮った。「もし私が、『出て行くのは御免だ』と言ったら?」

「…お前を縛り上げて、寺に連れて行く。そして、真琴から引き剥がす」

「無理だね」

 女は鼻で笑うと、白っぽくなった舌を、べえっと出した。

 挑発ではない。本気だった。

「そうしようものなら、私は迷うことなく、この舌を噛みちぎるよ?」

 そう言われても。悔しいことに、冷汗をかくことはなかった。心臓も、変わらず九〇回/分のリズムを刻み続けている。そんな僕の冷たい反応に気づいた女は、それに浸け込んだ。

「あまり、驚いていないんだね」

「…そうだな、自分でもびっくりだよ」

「もしかして、嘘だと思っている? 脅しだとでも? 私は本気だよ? 主導権は私にある。だけど、君の信用を得るために、敢えて下に出たんだ。そこを理解してほしいね」

 ああ、そうか。

 つまり、女はいつでも、真琴の身体を殺すことができるのだ。人質を取っているようなものだ。だが、それだと、僕の報復を買いかねない。だから、「土下座」という穏便な態度に出た。でも、それでも通用しないというのなら、強硬手段というわけだ。

 僕は甘く見ていた。

 最初から最後まで、主導権はこの女にあるのだ。最初から僕に、選ぶ権利など無かった。

「一年だ。別にいいだろう?」

 女は首を傾げて続ける。

「それに、失くして惜しい女じゃないんだろう? わかるよ。冷めきった関係だ。だったら、君は私に許可をするだけでいい。それだけで、私はこの一年間を過ごし、一年が過ぎればあの世へと戻る。いいかい? 何度でも言うよ? 私は悪霊じゃないんだ。」

 女は姿勢を整えると、また、額を床に押し付けた。相変わらず、背筋が伸び、一瞬のぶれも無い見事な土下座だ。

「お願いします、一年間だけ、この子の身体を…」

「………」

 ああ、もう、どうでもいいかな。

 その後、僕がどんなことを言ったのかはよく覚えていない。

 女は満足したように笑い、舌をぺろりと出した。

「じゃあ、自己紹介といこう。私の名前は、黒田充希。安心しなよ。死んだのは五年前。そんなにおばあちゃんじゃない。仲良くしようじゃないか。一年後、私があの世に帰るまで」

 その日から、真琴に憑いた「黒田充希」という女との生活が始まった。

 本当、ろくでもない人生だ。

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