第二章『契約』

第7話

【現在】

「なあ、お前、本当に真琴か?」

 もう一度、僕は目の前にいる女に聞いた。

 女は猫のような目をきょとんとさせ、華奢な肩を竦めた。下唇を舐め、ため息をつく。

「その、根拠は?」

 否定しなかった。否定しないということは、何かがあるということだ。

 それを想像した僕は、腹の底を掬い上げられるような感覚に襲われ、一人で震えた。でも、答えないと取って食われそうな気がしたので、無理に言葉を絞り出した。

「…最近、お前の様子が変だ」

「変?」

 女は首を傾げる。その拍子に見えた首筋は、いつも通り美しかった。

「どこが、変なの?」

「…僕の布団で寝た。料理を作った…。大嫌いな散歩に出かけた…。好きな小説を読まない…。僕にキスをした…、それから」

 その時、僕は初めて、真琴が笑うのを見た。

 思わず、言葉が咽の奥に詰まる。その隙に、女が言った。

「…この身体の女は、そんなに何もしない子だったのか」

「え…」

「君があまりにも腑抜けた顔をしていたからね、てっきり、この女が君の面倒を見ているのだと思った。違ったようだね」

 口調が変わった。

「やっぱり、思い通りにはいかないものだね」

 僕は身を乗り出すと、真琴の姿をした女の肩を掴んだ。

「お前、誰だ?」

「…話すとややこしくなるから、結論だけ述べさせてもらうよ」

 女は両手を挙げて降参の意を示してから、衝撃の事実を述べた。

「私は、君の彼女さんではない」

 落雷に打たれたかのような衝撃が、僕の脳天を突き抜けた。

 女は優しそうに笑うと、腕を僕の首に回し、抱き寄せる。放心した僕は抗うことができず、女の胸に顔を埋めた。柔らかい感触と、その甘い匂いに、思わず眠気が押し寄せる。それと同時に、背筋が冷たくなって目が冴えた。

 真琴はこんなことをしない。しないはずの行動をとったということが、言葉よりも重い説得力となって僕の後頭部を打った。

「誤解のないように言うけど、肉体は本物だよ。本物の、朝霧真琴のものだ。身長は一五八センチ。体重は四二キロ。今は生理中で腹痛に苦しめられている。貧血気味で頬が青くなっている朝霧真琴ちゃんだ」

 肉体は…本物? どういうことだ?

「中身が違うってこと」

 女はそう言って、くっきりと浮いた鎖骨に触れた。

「身体は真琴ちゃんのもの。だけど、中身は違う。真琴ちゃんのものじゃない魂が入っている」

 そう聞いた瞬間、胃がうねり、食べたものを吐きだしそうになった。思わず手で押さえ、苦いものを飲み込む。蹲ると、涙を滲ませながら、女が言ったことを反芻した。

 今、僕の前の前にいる女は、真琴であって、真琴ではない。

 何か霊的なものが、彼女の身体を乗っ取っている。

「…おい、真琴は…、大丈夫なんだろうな」

「大丈夫だよ」笑いながら頷く。「これは私も驚いたことなんだけど、一つの肉体に一つの魂、というわけではないみたいなんだ。私がやったみたいに、一つの肉体には複数の魂が侵入することができる…。だけど、肉体を操ることができるのは一つだけみたいだね」

「おい、じゃあ、真琴の魂は」

「うん、無事だよ。だけど、今は私が肉体の主導権を握っているから、まったく動かない。多分、こういうのを、巷で言う『憑依』って言うんだと思うよ」

 要するに「憑いた」ということだ。

 理解した瞬間、僕の唇が動いていた。

「おい、出て行けよ」

 女の胸ぐらを掴み、壁に押し付ける。

「真琴を…、返せ」

「まあ、そんなに慌てるなよ。私は別に、彼女を呪い殺そうってわけじゃないんだ」

 女は余裕な笑みを浮かべる。それが、真琴の身体を介して行われているということが、無性に苛立った。

 女は僕の腕を掴むと、やんわりと押し戻した。

「落ち着いて聞いてくれ」

「…落ち着いていられるかよ」

「いいや、落ち着いて。いいね?」

 女は諭すように言った。

 僕が身体の力を抜いたのを確認すると、「いいこだよ」と頷く。

「まず、君の彼女の身体を奪ってしまったことを、申し訳ないと思っている。最初からそう伝えるという手もあったのだけど、何も知らない方が幸せじゃないか? と考えるに至ってね…。だから、君の彼女のようにふるまおうとしたんだけど、失敗だったよ。まさか、君たちの仲がそんなに冷え切っているとは思わなかった」

 核心を突かれて痛む胸を紛らわせるように、僕は口を開いた。

「…申し訳ないなら、出て行けよ」

「そう言うわけにはいかない」

 女ははっきりと首を横に振った。

「そもそも、悪いのは君たちだからさ」

「あ?」

 殴りたくなり拳を振り上げたが、肉体は真琴の身体だということを思い出す。

 殴られないとわかった女は、落ち着いて言った。

「今日は何日か、わかるか?」

「え…」

 今日は、八月二十三日…、だよな。

 一度スマホで確認しようとすると、女が口を開いた。

「今日は、八月二十三日だよ」

「あ、はい」

「じゃあ、八月十三日から十六日は、何の日だ?」

「…それは」

 反射的に答えを発する。

「お盆…」

「そういうことなんだよ」

 女は頷くと、天井を指した。

「あの日、私はあの世から現世に帰っていたんだ。本来あの日に、あの世に戻るはずだった…。それなのに、君たちが現れたせいで、真琴ちゃんに憑かざるを得なくなったんだよ」

「どういうことだ?」

「まあ、君は、気を失っていたから見ていないか…」

 女は意味深長に頷くと、下唇を湿らせてから言葉を継いだ。

「お盆の日に、あの世からこの世に戻って来るためには、ある条件があるんだ。別に、そんなに難しいことじゃないよ。キュウリの馬、そしてナスビの牛。この二つがあるだけでいい。この乗り物が無いと、私たち死者は、あの世とこの世を行き来することができないんだ」

 お盆の話は、祖母からうっすらと聞いたことがあった。

「君は足を滑らせて斜面を転がり落ちただろう? あの時、君が倒れていたところは、路肩だったんだよ。そこにはね、交通事故で死んだ私のために、地元の人間が置いてくれた、キュウリの馬とナスビの牛が置いてあったんだ」

 女の目が細くなる。「もうわかるだろう?」と言いたげだった。

 僕はうなだれ、答えを言った。

「僕が、踏み潰したってわけだ」

「正解。察しが良いね。偉いよ」

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