第6話

「ごめんよ…。僕が悪かったよ…、本当にごめん」

 乾き始めたアスファルトの上を、レンタカーはのろのろと進む。

 泣きそうにしゃべる僕を横目に、真琴はヘッドホンを装着した。スマホを操作して音楽を聴き始める。それに構わず、僕は後悔を垂れ流し続けた。

「…馬鹿だよな…。計画も何もない。本当にごめん。こんなだったら、アパートで本でも読んでいたら良かった…、本当にごめん…」

 なあ、別れようか…。そう言おうと息を吸い込み「なあ、わ」とまで口にした瞬間、ヘッドホンを装着したまま、真琴が遮った。

「ねえ」

 思わず真琴の方を見る。

 彼女は「前見なよ」と言って、僕の脇腹を小突いた。

 慌てて向き直り、アクセルを踏む。

「いつまでもうじうじうじうじ、謝らないでくれる? 私が『展望台以外なら帰る』って言ったの。別にあんたを責めているわけじゃないでしょうが」

「…ごめん」

「ほら、また謝った。私がこうなのは、付き合い始めた時からわかっているでしょうが」

真琴にそうやってきつい言葉を投げかけられるたびに、僕は彼女に告白したことを、一ミリだけ後悔した。ハンドルを握る手が震える。しゃべろうにも、初めてバイトの面接を受けた時のように、喉の奥が震えた。

真琴は、一方的に言った。

「で、どうなの? どうしてあんたって、いつも『自分不幸でしょ?』みたいな顔をしているわけ?」

「…それは」

「口を開いたと思えば、『ごめん』だし、私はあんたの彼女なんだから、遠慮なしにやればいいのに、人の顔色を窺ってびくびくしながら提案してくる。今日だって、私の機嫌取りだったんでしょう? 好きなところ言えばいいのよ。私だって付き合うから。バイトの時だって、いっつも死んだ魚みたいな顔しているし、客にクレーム入れられたくらいでこの世の終わりみたいな顔をしているし…。何なの?」

「ごめん」

「責めているわけじゃないの」

 ぽつん…と、ボンネットに雨の雫が当たった。それから、ぽつぽつっ! と、フロントガラスに水滴が落ちた。また降り出したのかと思ったが、多分、頭上の木の葉からだろう。 

「…ごめん」

彼女が言いたいことはわかる。

 確かに、僕は常に無気力な顔をしていた。恋人である真琴にも、遠慮がちに接した。嫌なことがあったって、感情をむき出しにして怒ることも無い。

 優しい彼氏。と言えば聞こえはいい。つまり僕は、つまらない彼氏だった。

 どうして僕がこんなふうになってしまったのか。思い返すと、脳裏には過去の嫌な出来事が次々に浮かび、トラウマをよみがえらせた。

「あんたがそうなっちゃったのは、それ相応のことがあったからでしょう?」

 真琴は、言葉はきついが、理不尽ではなかった。

 それ相応に、僕のことを理解している節がある。

 僕はウォッシャー液を噴射すると、ワイパーで窓を拭った。

「実は……」

 思い出すは、子供の頃の話。

「僕の父親は…」

 言いかけた瞬間、バツンッ! と、座席の下で何かが破裂する音が聞こえた。

 と同時に、鈍い衝撃が車体を襲い、窓に映る景色が少しだけ斜めになった。

「え…」

 僕は慌ててブレーキを踏んだ。大してスピードは出ていなかったから、簡単に停まった。エンジンを切ると、「どうしたの?」と聞いてくる真琴に構う余裕も無く、外に飛び出した。

 確認すると、右前輪にガラス片のようなものが突き刺さり、パンクをしていた。

「パンクしているの?」

「うん」

 裂けたゴムに触れて項垂れた。もう踏んだり蹴ったりだった。

「…ごめん」

また謝る。

「今日は、本当にダメな日だな…。ごめん、巻き込んで…」

 どうしよう…。こういう時って、何処に電話すればいいんだ? ここに放置していて大丈夫なのか? 他に車は来ないか?

「…本当に、ごめん」

「ああ! もう!」

 バタンッ! と、扉を不貞腐れたように閉める音がした。

 外に出てきた真琴は僕に駆け寄ると、頬をひっぱたいた。

「謝らないでよ! 気分が悪い! 別にあんたのせいじゃないでしょうが!」

 声に急かされて、僕はポケットに手を入れた。スマホを取り出し、近くにガソリンスタンドは無いか検索をしようとした。無ければ、ロードサービスに電話するしかない。

 慌てていたんだ。

 スマホを操作しようとした瞬間、指が滑った。

 スマホは僕の手から零れ落ち、すぐそこにあった茂みに落ちた。

「あ……」

 僕は一歩踏み出し、落ちたスマホを拾おうと身を屈めた。

 その時、伸ばした手の先に、黒い靴下を履いた足があることに気づいた。それは、地面から十センチほど離れたところにあって、吹きおろされる風でかすかに揺れている。

 やめておけばよかったのに、僕は反射的に見上げていた。

 それは、首にネクタイを巻きつけ、宙にぶら下がった男だった。顔には当然生気は無く、段ボールのような色をしている。何か言いたげに開いた口からは粘っこい唾液が垂れ、白濁した眼球が僕を睨んでいた。

「うわあ!」

 僕は悲鳴をあげて飛び退こうとした。が、ずるりと、濡れた草で滑る。

 バランスを崩した僕は、腰をしたたかに打ち付けた。それでも「逃げないと!」という気が強く、手をついて立ち上がる。そしてまた、滑った。

そのまま、頭から茂みに突っ込む。額に石がぶつかる。大した痛みではなかったが、平衡感覚を狂わせるのには十分だった。

 手を伸ばす。指先は空を切った。踏みとどまるようなこともせず、そのまま茂みの先にあった斜面を転がり落ちた。枝が肩に刺さる。苦い土が舌に触れた。目が回り、吐き気を催す。

 頭上から、真琴の「ホタルくん!」と呼ぶ声。

 転がって、転がって、そして、斜面の真下にあって道路まで転がり落ち、止まった。

「……ああ、くそ」

 動けない。骨は折れているか? 出血は? 反射的に額に触れると、熱くて、どろっとした感触があった。見ると、指先が血で赤く染まっていた。

 恥ずかしい話、僕はそれを見て、「ああ、死んだな」と思った。

 ああ、ろくでもない人生だったな…と、思いながら、首を動かして横を見た。

 そこには、黒く焦げた足があった。

 あ…って思い、眼球を動かして上を見る。

 先ほどの、黒焦げた女が、僕を見下ろしていた。

 それだけじゃない。女の後ろに、首を吊った男が浮かび上がり、僕を見下ろした。

 それだけじゃない。女の横に、腰の曲がった老婆が現れて、目や鼻、口から赤黒い液体を垂れ流しながら僕を睨んだ。何かを言おうと口をぱくつかせるが、ごぼっ! ごぼごぼっ! とと排水溝が詰まったような音がするばかりだ。

 ああ、終わりだ。僕はこの三人に連れて行かれる。

 もう…、やめてくれよ。お願いだから、もう、成仏してくれ。

 そう念じても、三人は消えることはなかった。

 お願いだよ。もう、僕の前に現れないでくれ、父さん、母さん、ばあちゃん…。

 そう願っても、首を吊った父、黒焦げになった母、血を吐く祖母は消えることは無かった。

 何もしない。死んだときの姿のまま、僕のことを見下ろしている。

 黒焦げの母さんは「あんたなんて産むんじゃなかった」って言いたげな顔をしている。首を吊った父さんは、「結婚するんじゃなかった」って言いたげな顔をしている。血を吐いている祖母は、「一族の恥さらしめ」と言いたげな顔。

 頼むよ、もう、放っておいてくれ…と、諦めて目を閉じた時、背後に人の気配を感じた。いや、人じゃない。見てはいないが、本能的にそう思った。

 何かが、傷ついた僕の背中に触れる。

 その瞬間、僕は気を失った。

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