第5話

「…ごめんよ」

 そう謝りながら、僕はアクセルを踏んで駐車場から出た。真琴は何も言わない。

「…途中にマクドナルドがあったか、そこで何か買おう。それでアパートに戻ろう。ごめんね、楽しませられなくて。僕、彼氏なのにさ」

 別れたいなあ…。そう思った。もちろん、真琴のことが嫌いなわけではない。こんなふがいない彼氏を持ち、休日を振り回される真琴のことを考えると、別れてやりたくなったのだ。

 でもやっぱり、その言葉を口にするのは憚れた。多分、一人の女性さえ満足させることができない男になるのが恥ずかしかったのだと思う。だけど、よくよく考えていれば、別れを惜しむほど、僕と真琴の出会いは、ロマンティックなものではなかった。

「……ほんと、ごめんよ」

        ※

 僕と真琴の出会いは、書店のバイトだった。

 僕よりも二週間後に彼女がやってきて、慣れるにつれて、やがて昼間の時間帯を二人で任されるようになった。人見知りなのか、それとも人を見下しているのか、真琴は全くと言って僕に話しかけなかった。業務を覚えると、淡々とこなし、時間になったら「お疲れ様です」と言って帰宅する。僕も、彼女のその人を拒絶するような雰囲気に押されて、話しかけることはできなかった。

 一緒の時間になって一か月が経った頃。

 客が少ない時間帯を利用して、僕は本棚の埃を払ったり、整理をしたり、床を磨いたりと、いろいろできることをやっていた。対して真琴は、本棚の前に立ち、本を整理するふりをしながら本を読んでいた。

 それを見た時、僕は「ああ、こいつ、やっぱり人間だな」って思った。そして、彼女が読んでいた小説の作者を見た時、それが僕の好きな作家で、ちょっとだけ嬉しくなった。

 そういう時にだけ、僕には勇気が生まれ、読んでいる彼女に声を掛けていた。「ねえ、その作家さん、好きなの?」と。

 真琴は少し驚いたようだったが、すぐに「うん」と頷いた。それを聞いて、僕はまたうれしくなった。

それから僕と真琴は、その小説家について、軽く語り合った。あくまで軽く、だ。「どの作品が好き?」「最新作は読んだ?」って。でも、それだけでは終わらなかった。バイトの度に、僕は真琴と話した。真琴とは趣味が合った。でもやっぱり、深くは語り合わなかった。

 あのままだったら、僕たちは友達未満の関係を、どちらかがバイトをやめるまでグダグダと続けていたのだろう。

 真琴と話すようになってから一週間くらいが経った、ある日、僕と彼女が交際に至るきっかけになることが起こった。

 どういう経緯があったのかは覚えていないが、あの日、僕は歓楽街の近くを歩いていた。

 夏のくせに、肌寒い夜だった。

 微かな客引きの声を、右耳から左耳に流しつつ、アパートがある方へと曲がろうとしたときだった。

 曲がり角から黒い人影が飛び出してきて、僕に激突した。

 骨ばった肘が腹に食い込み激痛が走る。寡黙な僕は「うおわッ!」なんて間抜けな声をあげて、ぶつかってきた人と共に、冷たいアスファルトの上を転がった。

 急に飛び出してきやがって。危ないだろ。

 僕はそう言おうと息を吸い込んだのだが、それが、バイト先の真琴であることに気づいた。

 彼女は、黒色のコートの下に、生地の厚いワンピースを身に纏っていたのだが、その肩の辺りは、無理に引っ張られたかのように裂けていた。おかげで、中学生を思わせる白いブラジャーと、貧相な胸が露わになっている。

 その目には、涙。

 一瞬で、彼女の身に起こった危機を察した僕は、着ていたウインドブレーカーを脱いで、真琴の胸に突き付けた。

 何があったんだ? と聞こうとすると、路地裏の方から、男が悪態をつくような声がした。

彼女は後ろを振り返り舌打ちをすると、僕に詰め寄った。

「助けて」

 その言葉に僕は立ち上がり、真琴の手を取ると、尻を叩かれた馬のように走り出した。

 走って、走って、汗まみれになりながらアパートにたどり着き、真琴を部屋に押し込む。

 真琴は部屋に入るやいなや、玄関でしゃがみ込み、肩で息をしていた。

 僕はコーヒーを淹れつつ、彼女が落ち着くのを待ち、聞いた。

「なあ、何があったんだ?」

「言わない…」

 落ち着いた途端、いつもの、氷の女王みたいな態度に戻る真琴。

 まあ、この方が彼女らしいな…と思い、僕はそれ以上聞かなかった。それになんとなく、あの場所で何が起こったのかは想像できた。それで満足だった。

「帰る前に、コーヒーでも飲んで行けよ」

「要らない。借りを作りたくない」

「もう作ってるだろ」

 そうつっこむと、彼女は横目で僕を睨んだ。

「じゃあ、コーヒーを飲むことで、借りを返すね」

 そんな屁理屈をこねながら、リビングに入る真琴。

 壁際にあった本棚を見るや否や、息を呑んだ。

 沼の底みたいに濁っていた目が、星が落ちてきたみたいに、きらりと光る。

「…そう言えば、海原さんって、本、好きだったよね」

「そりゃあ、本屋で働いてるから」

「ちょっと読んでっていい?」

 僕が頷くよりも先に本棚に歩み寄り、ある推理小説を一冊抜く。そして、いつもバイトの時にやっているように、その場で読み始めた。

 ちょっと…って言ったくせに、彼女は一時間かけてその小説を読み切った。これで終わりかと思いきや、次の一冊に手をかけ、また、一時間で読み切った。それでも終わることは無く、いつの間にか眠りに落ちた僕の横で、彼女はずっと本を読んでいた。

 それから、真琴は毎日のように僕の部屋に押しかけて、本を読んだ。

 僕が収集していた本すべてを読み切った彼女は、新しい本を買ってきて、読んだ。

 そうして、一緒にいる時間が増えていって…。

気が付いたら交際していた。

告白も、かなりあっさりしていたと思う。「付き合う?」「うん? いいよ」って感じに。

それから、ちょっとだけ、後悔をした。

二人は、キスはしなかった。当然、セックスもしなかった。デートをすると言っても、僕の部屋で、買ってきた小説を読み、感想を言いあう程度だった。食事は僕が作った。服も洗ってやった。真琴は相変わらず捻くれていて、「もっと楽しいこと考えられないの?」「味が薄い。だからもやしみたいな身体をしているのよ」「この柔軟剤の匂い嫌いなんだけど」と、常に文句を垂れ流していた。それが彼女の性格だと理解はしていたが、まちばりで突かれるように、胸が痛くなった。

真琴は可愛い。黒髪を伸ばしていて、絶対に結ばない。ロングスカートと、底の厚いブーツをよく身に着ける。だけど、童顔だから、あまり似合っているとは言えなかった。たまに、テレビの前で横になっている真琴は、風呂上りにだらける妹のようだった。

こんな素敵な女性に、僕は不釣り合いだよなあ…。

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