第4話
【八月十六日】
今でも思う。当時も思った。
二十年間、誰からも愛されることが無かった僕が、真琴との交際を始めたのは奇跡だった。どのくらいの奇跡かと言えば、皆既日食が起こると同時に、皆既月食が起こるようなものだ。つまり、ありえないということだ。
いやいや、ありえているじゃないか。というツッコミは無視をする。常識じゃ考えられない出来事だって世の中にはあるものさ。だからこうやって、真琴が変貌してしまったんだ。
あの時は確か、天気の悪い日だった。
※
夜明け前…、時間で言うと五時頃だっただろうか? アパートの窓際で、僕こと「海原蛍」が布団をかぶって眠っていると、雨粒が屋根を叩く音が耳に入った。一瞬は気づかずに寝過ごそうかと思ったが、本能的に目を覚まし、「嘘だろ!」と一人呟きながら跳び起きた。
慌ててガラス戸を開けると、生温い風と共に、大粒の雫が部屋に飛び込んできて、僕の汗ばんだシャツを濡らした。背筋がすうっと寒くなる。
布団が濡れるといけないので、すぐに閉める。そして一言。
「うわあ、なんでだよ…」
昨日見た天気予報じゃ、「今日は一日晴れ」って言っていたじゃないか。それなのに、なんだよこの天気は。空を黒い雲が覆って、弾丸のような雨粒が降り注いでいるじゃないか。道路にもすでに水たまりができていて、アパート前の土の駐車場は沼のようになっている。
天気予報が当たる確率は八十パーセント。という統計を思い出した。「天気予報は必ず当たるとは限らない」。確かにその通りで、五回に一回は外れるのはわかっているけど、こんな、真琴とデートする日に外れなくたっていいじゃないか。
どうする? 真琴に早めに連絡を入れようか? でも、この時間帯はまだ寝ているだろう。いや、僕みたいに雨音で目を覚ましたなら出てくれるか? いやいや、そうだとしても、この時間に電話するのは非常識極まれり。
真琴にデート中止の電話を入れるかいれないか、どうでもいいことで悩んでいると、ベランダに気配を感じた…ような気がした。
おもむろに顔を上げると、そこにいたのは、首をネクタイで吊った男だった。
僕は静かな悲鳴をあげた。
物干し竿からぶら下がった男は、突風に吹かれ、窓際の風鈴のようにゆらゆらと揺れていた。だらしなく開いた口からは血のような液体が流れ落ちている。当然、目には生気は無い。それなのに、僕は、彼が僕のことを「睨んでいる」ような気がして、一層震えあがった。
大丈夫。落ち着け…と、何とか自分に言い聞かせると、僕は壁際に置いてあった段ボール箱に手を伸ばし、栄養剤の瓶を一本引っ張り出した。
キャップを捻って開けると、朝で空っぽの胃に流し込む。食道を甘ったるい液体が流れ落ち、胃粘膜に吸収されるのを感じながら、もう一度窓を見た。
そこには誰もいなかった。
僕は安堵の息を吐くと、膝を抱いて蹲り、また少しだけ眠った。
次に目が覚めたのは九時十分で、真琴との約束の時間まで一時間を切っていた。
今更「デートは中止にしよう」とは言えず、さてどうしようか? と頭を抱えたが、窓の外を見ると、あれだけ降り注いだ雨は止んでいた。
ゲリラ的なものだったのか…と安堵した僕は、玄関に置いてあったレンタカーの鍵を掴み、外に出た。雨は止んでいたものの、アパート前の駐車場は溶かしたチョコレートのようになっていた。灌漑舗装の行き届いていない道路は、あらゆる場所に大きな水たまりができ、灰色の空を反射している。夏の暑さと相まって、空気はねっとりと肌に張り付くようだった。
少し車を走らせて、真琴のアパートに到着する。
待ち合わせの時間まで、あと十分。三分前になったら出て行こう。
そう思い、ハザードランプを光らせ、シートに背をもたれて楽にする。その時、運転席横の扉の前に、誰かが立った。
無断駐車を咎められるのかと思い、「すみませんね。すぐに退きますから」という言葉を喉の奥で作りながら、目を向けた。
立っていた者を見た時、僕は小さな悲鳴をあげた。
それは女だった。ただの女じゃない。焼け焦げた女だ。
みすぼらしい服の下にある肌は真っ黒で、所々、蜘蛛の巣状に裂け血が滲んでいる。半開きになった口の奥には真っ赤な舌があり、朝露を舐めるように、ちろちろと動いている。眼球は溶け落ち、真っ黒な眼底が僕を睨んでいた。
僕は変な声をあげると、窓から身を引いた。だが、シートベルトをしていたせいで動けない。
パニックになったが、いつものことなのですぐに我に返り、ボトルホルダーに手を伸ばした。置いてあった栄養剤を取ると、パキン! と蓋を捻り、一気に飲んだ。
甘ったるくべたついた液体が喉を滑り落ち、腹の底に滴る。
カフェインとビタミンB1、そしてタウリンが吸収されていくのを感じながら、目を強く瞑り、事が過ぎるのを待った。
お願いします。お願いします…、許してください…。と祈りながら…。
ふと顔を上げた時、窓の外にいた焼け焦げた女は消えていた。
「…はあ」
安堵の息を吐いて、今一度時計を確認しようとした瞬間。
コツンコツン! と、レンタカーの窓が叩かれた。
「うあ!」と悲鳴をあげて、助手席の方を見る。そこには、不機嫌な顔をした真琴が立って、車内を覗き込んでいた。
間抜けな顔をする彼氏を見て、真琴はいつものことのようにため息をつくと、扉を開けて助手席に座った。捲れ上がりそうになったロングスカート、パーカーの紐の順に整え、それから、まとまらない前髪を鬱陶しそうに押さえる。
「ねえ、ホタルくん、天気予報くらい見られないの?」
真琴は、開口一番そう言った。
「こんな天気で、展望台からの景色が楽しめるわけ?」
「…ごめん」僕は窓を伝う水滴を見ながら俯いた。「三日前の時点じゃ晴れって言っていたけど、こんなに悪くなるとは思っていなかったよ…。どうする? 場所、変える?」
「展望台以外だったら私、帰るから。眠たいんだし」
真琴はショルダーバッグを後部座席に放ると、シートベルトを締めた。
「…わかったよ」
僕は泣きたくなる気持ちを抑え、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
レンタカーはゆっくりと、雨に洗い流された町を進み始める。
隣の真琴は早速、首に掛けてあったヘッドホンを装着し、音楽を聴こうとした。しかし、ボトルホルダーに置いてあった栄養剤の瓶に気づき、怪訝な顔をした。
「また栄養剤?」
「ああ…、うん、疲れているんだ」
そう、疲れているんだ。
「バイトも大して忙しくないのに?」
「うん、昨日はちょっと眠れなくてね」
ちらりと右側の窓を見る。…大丈夫、誰も立っていない。
震える手でハンドルを切る彼氏を横目に、真琴は音楽を聴き始めた。
相変わらず、地面は濡れていて、空は墨汁を垂らしたように黒かった。彼女の言う通り、こんな天気で、デートなんか楽しめるはずがない。
こんなはずじゃなかったのにな…そんなことを考えながら、右折した。
真琴とのデート計画を立てたのは、つい三日前のことだった。
新聞受けに入っていた無料地方紙を読んでいた時、町はずれの山の頂上に、新しく展望台ができたことを知った。山の麓にある駐車場に車を停めて、ハイキングコースを使ってのんびり登るのも良し。広い道路を通って一気に頂上まで上がるのも良し。
それを読んだ時、真琴との仲が冷め始めていた僕は、それを何とかしようと彼女に声を掛けた。当然、真琴は「面倒くさい」と言って一蹴した。それでも「車は僕が出す」「頂上でアイスクリームを買ってあげる」「新しい本を買ってあげる」としつこくお願いすると、ようやく一緒に着いてきてくれることになった。その結果がこのざまだ。
不機嫌な真琴のためにも、僕はできるだけ明るくふるまい、その展望台がある山に向かった。だが、下の駐車場には誰もいなかった。上る途中でも、誰ともすれ違わなかった。嫌な予感を抱きながら頂上に着いたが、曇天と霧のせいで何も見えなかった。
何も楽しむことができず、僕たちはアイスクリームだけを買って帰ることにした。その時には、真琴の機嫌は最悪で、ずっと眉間に皺を寄せていた。
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