第3話

 いつもなら、「暑いよ。早く帰ろう」と文句たらたらだったというのに、とろけるような暑さの中をスキップでもしそうに、なんなら、その黒い黒髪を翼に変容させて飛び立ちそうな勢いで歩いた。

 また、「喉が渇いたね」なんて言って、通りすがりの駄菓子屋で冷えたラムネを買って戻ってきた。今までの真琴なら、絶対に自分じゃ金を出さなかった。それに、瓶を返却しないといけない、面倒くさいラムネなんて手を出さない。

 そもそも、彼女が炭酸を飲んだことを、僕は見たことが無かった。ラムネ瓶を傾けた時、柔らかくうねる彼女の喉は、心なしか美しいと思った。

 川治いを歩いてみたり、公園で、パンツが見えそうな勢いでブランコを漕いでみたり、猫を撫でたり、噴水に足を浸けたり、塾に行く途中の小学生に手を振ったり…。 

真琴の腹の中に眠っていた好奇心が、脳の主導権を握ったかのように、彼女は奔放に動いた。

昼を過ぎる頃には、お互い歩き疲れてへとへとで、服は汗を吸って重くなって、でも真琴は清々しい笑顔を見せていた。

 楽しかった。それと同時に、気持ち悪かった。

僕だって散歩は好きだ。大好きだ。小中高と、家庭環境が悲惨だったために、よく現実逃避のつもりで外を歩いたものだ。のんびりと歩いていると、嫌な気持ちは煙に巻かれたみたいに消え失せ、「ああ、もうちょっとだけ生きてみよう」と思えるのだ。呼吸をするように、食事をするように、僕にとって「散歩」とは大事なものだった。

だけど、真琴と交際を始めてからは、めっきりやらなくなった。なぜなら、彼女が「面倒くさい」と言ったから。

「暑い中歩くの? 面倒くさいでしょ」「それよりドライブしようよ。免許持っているでしょ?」「足がむくむのよ。豚足になったら、あんたのせいだからね」

 そう言ったはずの真琴が、積極的に散歩に駆り出した。しかも、「楽しいね」と言った。

 ああ…、彼女にも散歩の魅力が伝わったのか。そう思えれば、どれほど幸せだっただろうか?

 やはり、僕は彼女の変貌の裏に、何かどす黒いものを見ずにはいられなかった。

 何かがおかしい。何かが違っている。

 何かが起ころうとしている。何かが起こった。

 悶々とする僕の目の前では、相変わらず、真琴が楽しそうに振舞っていた。

 アパートに戻ると、シャワーを浴びて汗を流す。恥じらいも無く僕の前に出てきて、「次、入りなよ」と言った。

僕もシャワーを浴びて出ると、真琴は「ダサいから着ない」と言っていた僕のTシャツとハーフパンツを着て待っていた。「麦茶入れておいたよ。映画でも見よう」なんて言いながら。

 麦茶を飲むときも、肩を寄せ合って映画を見ている時も、僕は真琴の変貌の原因を考えていた。

 真琴はこんなに可愛くない。こんなに甘えてこないし、こんなに器用じゃない。

 何があった? まるで、別人じゃないか。

「なあ…」

 言葉が口を衝いて出た。

 何度でも言うが、根拠は無かった。なんとなく、ただ何となく、そう思ったことを、脊髄反射で口にしたのだ。

「お前…、本当に、真琴か?」

「え…」

 僕に言われた真琴は、一瞬は首を傾げた。だが、すぐに笑った。ただの笑いじゃない。歯をむき出しにして、にいっと…三日月のように笑ったのだ。

 それを見た瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。

 ああ…、やっぱり、僕の人生ってろくでもないな…。

 そう思った僕は、ただただ、泣きたくなった。

 そして、少しだけ、あの日のことを思い出した。

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