第15話 美法のチート
四日前、俺は何も思いつかずに頭を抱えていた。リーマン予想の証明の輪読会は既に終わっていて、俺達三人はそれぞれの発表準備に取り組んでいた。
二人とも、すでに方向性を決めているようだった。イリハは自分の研究から成果が出せそうなものを選んでいたし、美法も思いついているようだった。まだ準備を始められていないのは俺だけだった。
仕方がないので、俺は美法に助けを求めることにした。イリハの邪魔はしたくなかったが、美法ならいいだろうと思ったのだ。別に美法が嫌いだからとかじゃなくて、あいつは魔王討伐に興味がないと思ったからだ。
実際、美法がいま課題に挑戦しているのは、単に自分の実力を試したいからだった。
「私は今後、この世界で生きていくからな。今のうちに、数学者たちに名前を売っておいて損はないだろ?」
と、そんなことを言っていた。
「美法。課題のことで相談があるんだが」
彼女の部屋の扉をノックすると、美法は素直に中に入れてくれた。
なんだか殺風景な部屋だった。家具らしいものは、シックなベッドと、電灯(魔法灯)の置かれた読書机、そして本棚しかない。しかも本棚には、まばらにしか本が入っていない。ほとんどは床に散乱していた。
「整理しろよ」
「そうしたいのだが……」
椅子に座りながら、美法は珍しく弱音を吐いた。
「いま床にあるのはすべて魔法学の本で、私には分類のしようがないんだ」
本棚に収まっているのは、どれも数学の本だった。そっちはジャンルごとに分類されていた。
「魔法について調べているのか?」
「まぁな」
俺も美法も興味の中心は数学だが、美法は俺よりも興味の幅が広い。数学以外の学問についても、貪欲に知識を吸収しようとしていた。
「で、なんの用だ?」
俺はベッドに腰かけて、何一つ発表内容を思いつけていないことを白状した。
「この世界の数学をほとんど知らないのに、新規性のある発表なんて不可能だ。美法はどうするつもりなんだ?」
「私か? 私はこれだ」
美法が指を鳴らすと、空中に発表スライドが現れた。
「リーマン定理が予言する、新しい魔法について……?」
「リーマン『予想』とすべきか『定理』とすべきか、決めかねているところだ。せっかくだから定理と言い切ってしまいたいが、この世界でもまだ予想と言っておくべきだろうか」
「いやいやいや、ちょっと待てよ! なんだ、新しい魔法って? リーマン予想と魔法と、なんの関係があるんだよ?」
すると美律は、足を組んで、「ふむ?」と首を傾げた。
「いまだにそんなことを言っているのか?」
「え?」
「この世界において、魔法と数学は切っても切り離せない。あっちの世界で言うところの、物理学と数学みたいなものだ。だから国王は優秀な数学者を探しているんじゃないか」
「それはそうだが……」
美法はスライドを進めた。まだ未完成のようで、図が仮置き状態だったり、数式しか書いてなかったりしている。
「この式は知ってるか?」
美法はあるページで手を止めた。それはこの世界の文字で書かれた数式だったが、翻訳魔法で変換した数式は、俺も知っているものだった。
「ゼータ関数の非自明なゼロ点の間隔の分布を表す数式」
「そうだ」
ゼータ関数の非自明なゼロ点は、ランダムに並んでいるわけではないと予想されている。俺も詳しいことは知らないが、ゼロ点の間隔の分布が、ある簡単な数式で表されると予想されているのだ。美法が指し示した数式は、その式だった。
「イリハの両親が書いた証明を読む限り、この式は正しい」
「まじかよ」
「ところで、この式についての、奇妙な逸話を知っているか?」
「あれのことか? 原子のエネルギー準位の間隔と、同じ式だとかなんとか」
「ああ、それだ」
これまた俺も詳しくは知らないが、原子というのは、飛び飛びのエネルギーしか持てない。原子の持てるエネルギーの大きさのことをエネルギー準位と言い、その間隔の分布を表す数式が知られている。
そして奇妙なことに、ゼロ点の間隔の分布を表す数式と、エネルギー準位の間隔の分布を表す数式は、全く同じ形をしているのである!
これは、リーマン予想が、原子のエネルギー準位と関係しているかもしれないということだ。
「で、私はこう考えた。『この世界にも、同じような関係の何かがあるんじゃないか?』と」
「何かって……原子のエネルギー準位じゃないのか?」
「この世界に原子はない」
「え」
原子がない?
前に美法は、この世界の物理法則は元の世界とちょっと違うようだ、と言っていたが、原子がないんじゃ「ちょっと」どころじゃない。
「もしかしたら未発見なだけかもしれないが、誘拐した物理学者の話や、物理学の本には、原子の話は全く出てこなかった」
「じゃ、じゃあ、この世界の物質は何からできてるんだ?」
「私もまだ理解できていないが、おそらく四元素説やエーテル理論に近いな。何種類かの特殊なエネルギー体が宇宙に満ちていて、それらの融合や別離によって様々な物質や現象が生まれているようだ」
「俺達の世界でも、18世紀くらいまでは四元素説が信じられていた。この世界の物理学レベルが18世紀レベルって可能性はないのか?」
「もちろんその可能性はある。私もまだ、原子がないと断言はできない」
美法が同意してくれて、俺は少しほっとした。
「正直、今はそこは関係ない。私が注目したいのは、魔法のメカニズムだからな」
「魔法にメカニズムなんてあるのか?」
「ある。魔法は神の力を借りて行う奇跡だが、奇跡とはいえ『現象』だ。そして現象には、エネルギー体が関係する。魔法に関係するエネルギー体は四種類知られていて、これらが融合したり別離したりすることで、魔法が発動している」
奇跡のくせに、ちゃんと原理があるのか。
「しかし、この四種類は無条件で付いたり離れたりできるわけじゃない。融合・別離に必要な魔力量が、ある一定の値になるときにしか、変化しない」
「まさか、その値が」
「ああ。この値の間隔の分布が、ゼータ関数の非自明なゼロ点の間隔の分布に一致する」
なんだって!?
「そしてここからが重要なんだが、私が調べた限り、そのことに言及した書籍はない」
美法は床に積まれた魔法学の本に目配せした。それをずっと調べていたのか。
「つまり、これは新発見の事実だ。私はこれを発表するつもりだ」
「魔力量の間隔と、非自明なゼロ点の間隔が、同じ数式で表される……と?」
「ああ。ついでに、リーマン予想が真であることから、未発見の魔法のグループが存在することが証明できる」
「未発見の魔法?」
「魔法学の未解決問題らしいのだが、メジャーな魔法を魔力量の間隔でプロットすると、ごっそり抜けている領域が存在するんだ。そこに魔法が存在しないのか、あるけど見つけられていないのかが、わかっていない。しかしリーマン予想が真なら、つまりゼロ点の間隔があの数式通りなら、ここには未知の魔法がたしかに存在する」
「……」
開いた口が塞がらなかった。
美法は、とんでもない発見をしたのかもしれない。それも、元の世界の知識を使って!
「ち、知識チートじゃねえか! ゼロ点とエネルギー準位の類推から、魔法学の新発見だと!?」
「持ってる武器を使っただけだ」
美法は悪びれもしない。そりゃまぁ、別に悪いことをしたわけではないのだが。
……ん? 待てよ?
待てよ待てよ、何か変だぞ。
「おい、おかしいぞ。そんなことはあり得ない!」
美法は不敵に笑った。美法も、同じことにとっくに気付いているのだ。
俺達の世界では、ゼロ点の間隔とエネルギー準位の間隔が同じ数式で表される。
そしてこの世界では、ゼロ点の間隔と魔力量の間隔が同じ数式で表される。
と、いうことは。
「三段論法から、エネルギー準位の間隔と、魔力量の間隔も、同じ数式で表されることになる!」
「ああ。そうだな」
あり得ない!
なぜ、全く別の二つの世界にある、全く別の概念が、同じ数式で表される?
物理の法則と魔法の法則が、なぜ同じ数式になる?
「そんなこと、あり得るはずがない!」
「だが、あった。これは矛盾だな」
「そうだ。つまり背理法から、今までの議論のどこかが間違っている」
「いいや、間違っていない。間違っているのは、『あり得るはずがない』という楯太郎の直感の方だ」
そんなバカな……。
「私はこの理由について、ひとつの仮説を立てている」
「なんだ?」
「おそらくだが、あっちの世界とこっちの世界は、どちらも同じ神が作ったんじゃないだろうか。だから、似たような法則が存在するんだ」
「同じ神が……?」
俺達をこっちの世界の連れてきた、あの少女みたいな見た目の神ってことだろうか。
「考えてみたら、こっちの世界の『人間』が、地球の人間と同じ姿なのも、奇妙な話なんだ。地球上ですら環境が変われば生物の見た目は変わるのに、物理法則すら違う異世界で、指の本数まで同じ『人間』が誕生する確率はどれほどだ?」
計算しようがないが、おそらく限りなく低い確率だろう。
もし、本当に偶然に、二つの世界で同じ見た目の知的生命体が生まれたのなら、それは偶然ではない。奇跡だ。
「奇跡は神の御業だ。おそらくあの女神が、知的生命体が自分の姿に似るように進化させたんだろう」
「まじかよ……。ってことは、宇宙人もみんな、地球人に似た見た目なのか!?」
「かもな」
「うそだろぉ……」
色々と夢がぶち壊された。タコ型宇宙人とかいないのか。
しかし、美法の仮説は筋が通っている。少なくとも、俺には否定する考えが浮かばない。あの神が俺達をこの世界に連れて来れたのも、両方の世界を管理している神だからと考えれば辻褄が合う。
「まぁ、そんなわけだから」
美法は俺の目を真っすぐ見た。
「楯太郎の発表について、私からアドバイスできることは、『知識チートを使え』ってことだけだ」
そういえば、それを聞きに来たのだった。
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