第13話 リーマン予想は真である

 本は一冊しかなかったので、美法が魔法で三冊に増やした。


「あっという間にコピーが……。著作権とか大丈夫なのか?」

「さぁ? どうなんだ、イリハ?」

「大丈夫だと思います。この本はもう出版されることもないですし」

「え? なんで?」

「父が言っていました。誘拐されている間、魔王とリーマン予想について話していて、証明のブラッシュアップを思いついたと。なので本も少し書き換えるそうです。出版社の方は迷惑そうにしていましたが」

「美法、お前、人質に影響与えすぎだろ」


 俺が指摘しても、美法はどこ吹く風だ。


「むしろ良いことをした。この世界の数学を少しだけブラッシュアップできたのだから」


 相変わらず生意気な奴だ。


「あれ? じゃあ美法は、証明の中身を知ってるのか?」

「概要だけだ、深い理解はしていない。それはこれから読んで学ぶ」

「イリハは?」

「私も既にこの本は読んでますので、少しならわかります」

「全くわかってないのは俺だけってことか」


 俺達は各自で本を読み進め、一章ごとに話し合って疑問点を潰すことにした。輪読というやつだ。

 本は三章構成だった。まず第一章で、細かい命題がいくつも証明される。そしてそれらを使い、第二章である重要な補題が証明される。最後の第三章で、第二章の補題を使って、リーマン予想が証明される。……と、イリハが説明してくれた。


 で、その第一章から、俺はつまづいた。

 数十個の命題が、次から次へと証明されていく。しかもそれらの命題は有機的につながり合い、どれかひとつでも理解がおろそかだと、あとの命題が理解できない。

 いや、このような数学書は、俺達の世界にも普通にある。というか、これが数学書のセオリーだ。だから、そこは問題ではない。

 最大の問題は、証明に省略が多いことだ。しかも、それが著者のせいなのか、俺の知識不足のせいなのかが、わからない。この世界での有名な定理や、典型的な証明手法を、俺が知らないだけの可能性も十分あるのだ。


「という感じなのだが」

 第一章を読んだ雑感を、イリハに話した。もしイリハも同じ感じなら、悪いのは著者ということになるが。

「私には、たしかに難しい箇所もありますが、大半は理解できます」

「ってことは俺が悪いのか……」

 数学は、勉強すればするほど、自分の勉強不足を思い知らされる。


「ミノリさんは?」

「私も引っかかるところがいくつかある。例えば命題1.5だが、どう読んでも、途中で関数fとアルゴリズムfを同一視している。そういう定理があるのか?」

「ありますね……」

「あるのか……」


 イリハは、「そんなことも知らないのか」という顔をしていた。彼女は優しいので、一切口には出さなかったが、顔にははっきりとそう書かれていた。たぶん、この世界では常識的な定理なんだろう。


「わかりました。私が1から説明します!!」

「いや、それだと時間がかかりすぎる」

 イリハが振り上げた拳を、俺はそっと下ろさせる。

「今は概要だけつかみたい。これらの命題は、第二章の補題を証明するためにあると言ったよな。どんな補題なんだ?」


 補題とは、メインとなる定理を証明するために必要な定理のことだ。この本のメインはリーマン予想であり、第二章の定理はリーマン予想を証明するための補助定理だ。

 そして第一章の命題群は、それを証明するための定理。つまり、補題の補題だ。リーマン予想の準備のための準備が第一章である。


「第二章の補題は、ゼータ関数のゼロ点を計算するアルゴリズムの拡張版です」


 アルゴリズムとは、なんらかの問題を解くための実行手順のことだ。ゼータ関数は無限個の足し算の形をしているので、具体的に計算したいなら、なんらかの工夫が必要になる。俺達の世界でも計算手順が知られているが、この世界にもそれを具体的に行うアルゴリズムが存在するってことだろう。


「リーマン予想が提起されてすぐに、実部が1/2のゼロ点をすべて計算できるアルゴリズムが発明され、そのようなゼロ点が無限個あることが示されました」

「すべて計算したのか? 無限個あるのに?」

「実際に計算するのは不可能ですが、アルゴリズムから、ゼロ点の個数を知ることはできます。アルゴリズムから、無限個構成することができることが証明できたんです」


 素数の無限性の証明と同じか。この世界では、何かの存在を示すには、それを構成する方法を示さなくてはいけない。素数の無限性のときは数式を使ったが、アルゴリズムで示してもいいんだな。


「でも、これではリーマン予想は証明できません」

「そうだな」


 リーマン予想は、「ゼータ関数のすべての非自明なゼロ点が、実部1/2の直線上にある」という予想だ。だからリーマン予想を証明するには、実部1/2の場所に、非自明なゼロ点がことを言わなきゃいけない。1/2上にいくらゼロ点を見つけても、証明にはならないのだ。


「そこで、様々な方法で実部1/2以外のゼロ点を計算するアルゴリズムが発明されました。実部1以上のゼロ点を計算するアルゴリズムや、実部0以下のゼロ点を計算するアルゴリズムなどが作られ、それらの範囲に非自明なゼロ点が存在し得ないことが示されました」

「少しずつ範囲を狭めていったわけだ」

「はい。しかしそこから数十年、進展は止まります。長い停滞期の後、ほんの数年前、ある大発明がなされます」


 イリハの声に熱がこもる。ここからが本題だ。


「与えられたゼロ点と、同じ実部のゼロ点を求めるアルゴリズム、『ジェロノ・アルゴリズム』が発明されたんです」

「それは……すごいのか?」

「ジェロノ・アルゴリズムのすごいところは、従来のアルゴリズムとは全く異なる、新しい発想が用いられていたことです。その発想を見て、世界中で再びリーマン予想への熱狂が起こります。そして、ついに、私の両親がやってのけたんです」


 イリハは本をめくって、第二章を開いた。


「与えられた『点』と、同じ実部のゼロ点を見つけるアルゴリズム。私の両親が発明したのがこれです」

「拡張版ジェロノ・アルゴリズム……」

「今はこの名ですが、いずれ両親の名で呼ばれることになるでしょう」


 イリハは確信していた。


「与えられたゼロ点ではなく、点ってことは」

「はい。このアルゴリズムにより、任意の実数に対して、それを実部とするゼロ点を見つけることができます。そしてこの本の第三章で、0以上1以下の実数に対して、実部1/2以外のゼロ点が構成不可能なことが示されます。よって、リーマン予想は真なのです」


 イリハの説明を聞いて、いくつかの補題は、たしかにそこに結び付きそうだと納得した。そして、そのせいで、「リーマン予想が証明された」という事実が、急にリアリティを持ち始めた。今までは「よく聞く噂話」程度の距離感だったのに、突然、手の中に納まったような気持ちになった。

 俺の中に、矛盾した二つの気持ちが、同時に湧いた。早くそれを理解したいという思いと、理解して大丈夫かという思いが。

 素数の一般項と同じだ。この知識は、元の世界に持ち帰ると大変なことになる。今まで深く考えていなかったが、俺はこの本を読んでしまって大丈夫なのか?


 心配する俺とは対照的に、美法は目を輝かせていた。


「なるほどな、この世界での『ない』ことの証明は、そうやるのか。あっちの世界では『ある』と仮定して矛盾を導けば良いが、背理法のないこっちの世界ではそうはいかない。アルゴリズムを作って、そこから構成できないことを示すのか」

「楽しそうだな美法」

「当然だ。ところで、このジェロノ・アルゴリズムって名前、聞き覚えがあるのだが」

「え?」


 言われてみれば、俺も聞いた気がする。おかしい。俺達の世界にそんなアルゴリズムは存在しないし、こっちの世界の数学はほとんど知らないはずだ。なのに聞き覚えがあるのは、矛盾だ。


「待てよ、思い出した。ジェロノって、モルダカの苗字じゃん!」

「そうです。ジェロノ・アルゴリズムを発明したのは、モルダカさんのお父さんです」

「はー……」


 リーマン予想に貢献した数学者が身近に三人もいるのか。

 イリハは顔を伏せ、困ったように言った。


「モルダカさんが私を盗っ人呼ばわりするのは、これが理由です。私の両親のアルゴリズムは、ジェロノ・アルゴリズムをほんの少し拡張しただけなんです。私の両親でなくても、誰かはこの拡張にたどり着いたでしょう。実際、モルダカさんのお父さんも、あと一歩だったそうです」

「そういうことか」


 本当に泥棒をしたんじゃなくて、アイディアを受け継いだってことか。


「意味が分からないな」

 美法はきっぱり言った。本気で分かっていないのではなく、モルダカを非難するための言葉だった。

「発表した時点で、そのアルゴリズムは万人のものだ。誰がどう使おうが、文句は言えない。そうやって先人の知恵を受け継いで発展してきたのが数学じゃないか」

「もちろんそうですし、モルダカさんもそれはわかっているはずなのですが」

「心情的には受け入れにくいんだろう」と俺はモルダカの気持ちを汲んだ。「あいつ、自分の家柄に誇りを持ってたみたいだし、親父のことが好きなんだろ。リーマン予想を証明したとなれば、歴史に名前が残る。そのチャンスを親父がつかめなかったことが悔しいに違いない」

「ふん。どいつもこいつも下らない」


 おそらく美法には、親を好きになる気持ちがわからないのだ。わからないどころか、そのような感情を見下している。


「モルダカが魔王討伐にやる気なのも、そのせいなのかもな。魔王を討伐しても数学者としてはなんのメリットもないが、少なくとも家柄としての名誉にはなる」

「数学者としても、新しい魔法を考案できれば、名誉なことですよ。数学者の名前がついた魔法はたくさんあります」

「そういうものなのか」


 ま、たしかに、俺達の世界でも数学者の名前がついた技術は存在する。RSA暗号とか。


「そんなことより。これで、この本の概要が分かった。輪読に戻るぞ」

 美法は、モルダカにも名誉にも興味がない様子だった。

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