第10話 数学の話
翌朝。イリハと朝食を食べ、彼女を見送った後、俺は約束通り屋敷の掃除を始めた。屋敷全部は広すぎるので、俺達の生活範囲だけ掃除することにした。
掃除がほとんど終わりかけた頃、ようやく美法が起きてきた。
「おはよう。遅かったな」
「おはよう」
美法は気まずそうにきょろきょろすると、俺のそばに来た。
「イリハは?」
「とっくに出かけたぞ」
「そうか……昨日のことを謝りたかったんだが」
「帰って来てからだな。それより、朝食ができてるぞ。美法が食べ終わるまでに掃除も終わらせるから、そしたら課題をやろう」
「ああ、わかった。ありがとう」
とことこと、食堂の方へ歩いて行った。
なんか調子が狂うな。美法がしおらしい。昨日の喧嘩が尾を引いているようだ。
男っぽい声と喋り方で、いつも偉そうな態度をしていたが、子供らしいところもしっかりとあるんだな。
いやむしろ、子供だからこそ、ああいう態度で他人を攻撃することでしか身を守れなかったのかもしれない。
掃除を終えて食堂へ行くと、美法は食事の途中だった。丸いパンをもぐもぐと食べている。俺は対角線上の席に座って、なんとなくその様子を眺めた。
改めて見ると、たしかに幼さがある。痩せているのに、顔が丸っぽい。肌も瑞々しい。尊大な態度のせいで年上っぽく感じていたが、冷静に見つめれば年下とわかる。
「あまり見られると食べにくいんだが?」
美法が俺から顔をそむけた。
「わ、悪い」
俺も我に返る。何をじろじろ見ているんだ。美法が年上だろうが年下だろうが、そんなのはどうでもいいことだ。びっくりしたので、つい気にしてしまったが……。
気まずさで、なんだか喉が渇いた。俺はキッチンからコップを持ってきて、ティーポットから緑色のお茶を注いだ。
「これ、日本の緑茶に味が似ているよな」
「そうだな。作り方も似ている。若葉をすり潰し、加熱処理したあと、乾燥させるらしい」
「詳しいな。イリハに聞いたのか?」
「いや、誘拐した知識人から聞いた。ちなみに名前も似てるぞ。ライデ語で、その茶はローチャという」
「……」
そんな単語を覚えても、数学の解答を書く上では役に立たない。美法はこの世界の日常用語も覚えようとしている。もう、元の世界に帰るつもりはないのだ。
「美法は、こっちの世界に住み着くつもりなのか?」
「当然だ。誰があんな世界に帰るものか」
「俺は帰りたいけどな」
美法は黙ってパンを食べ終えると、お茶を一口飲んだ。
「なぜだ? 楯太郎は、なぜ帰りたいんだ?」
「友達や家族がいるからだ。あいつらに二度と会えないなんて、耐えられない」
「本気で言っているのか?」
「もちろんだ」
美法はため息を吐くと、不機嫌そうに頬杖をついた。
眩しいものを避けるかのように、俺から目を背ける。
「わからない」
「何が?」
「そんなもののために帰りたい理由が」
昨日の話を鑑みれば明らかだが、美法には友達がほとんどいないのだろう。家族とも仲が悪かったのかもしれない。だから帰りたくないのか……。
「美法の気持ちもわかるが、こっちの世界の方が良いってことも、ないんじゃないか?」
「そんなことはない。少なくとも、こっちには私と話が合う人がたくさんいる」
「誘拐してた人達のことか?」
「ああ。あんな人たちがいるなら、私はこっちの世界を選ぶ」
美法は誤解している。元の世界にだって学者はたくさんいる。美法と話が合う人はたくさんいるんだ。
「俺だって、中学のときはそこまで友達が多い方じゃなかった。数学の話ができるようになったのは、高校に入って、数学研究部に入ってからだ。そこで活動してわかったが、世の中には、美法みたいな人がいっぱいいる。勉強が好きで、勉強できることを馬鹿にしない人が、たくさんいるんだ」
「だが、私の周りにはいなかった」
美法はピシャリと言った。
「私には、それがすべてだ」
どうやら、取り付く島もない。
「仮にいたとしても、私はこっちの世界を選ぶ。こっちの世界には便利な魔法もあるし」
美法が指を振ると、食事を終えた皿がふわりと浮いて、キッチンの方に飛んで行った。
「それに、あっちの世界より数学が発展している。つまり、あっちの世界より、勉強しがいがある」
その点については、全面同意せざるを得なかった。
俺も、こっちの世界の数学だけは、元の世界に持って帰りたい。
「背理法がないのは不便だが、いずれ慣れるだろう」
「本当か?」
「ああ。慣れないはずがない」
美法は冗談めかして言った。
この世界の人間は、「慣れないはずがない」から「慣れる」を演繹できない。直観主義では、二重否定を除去できないからだ(できるなら、背理法を理解できる)。それが分かった上での美法なりのジョークで……俺がそれに笑ってしまったことで、この話は打ち切りの空気になってしまった。
***
そもそも俺達は、雑談している時間すら惜しいのだ。残り七日で、国王から出された六十問以上の難問を解かないといけない。
皿を洗った俺達は、早速課題に取り掛かった。昨日の話し合いの通り、前半の計算問題はすべて美法が魔法で解く。後半の証明問題を、俺は前から、美法は後ろから解く。そういう段取りになった。
ということで、俺は証明問題の一問目を確認した。
『差が2の素数の組のうち、小さい素数の1の位が3、大きい素数の1の位が5である素数は無数にあることを証明せよ』
……こいつは何を言っているんだ。
1の位が5だったら5の倍数なので、5以外は素数にならない。条件を満たす素数の組は、(3,5)の一組しか存在しない……。
いや、そうか。この世界は八進法なんだった! 八進法だと、1の位が5でも素数になり得る。例えば八進法の15は、十進法で13なので素数だ。ちなみに八進法の13は十進法で11なので、15と13は問題の条件を満たす。
だからと言ってどうやって示すかと言うと……そうか、この世界には素数の一般項があった。
食堂に置いてある本(美法がここで読んだ後、置きっぱなしにしているのだ)の中から整数論の本を探して、パラパラとめくる。この世界では基本公式らしく、どの本にもたいてい書いてある。
このp(n)がn番目の素数を表す。p(n+1)-p(n)=2とおいてnについて解けば、差が2の素数を与えるnが得られる。
複雑な式なのでただ引くだけでも大変だが、俺の計算力なら一分もかからない。
さて、頭を使うのはここからだ。これの1の位について議論しなきゃいけないが……。
おそらく、合同式を使えば良いのだろう。この式を8で割った余りについて考えればいい。八進法の世界では、8で割った余りが1の位を表すからだ。
8を法とすると、5はマイナス3だ。つまり3と補数の関係にある。
そうか、それを利用するんだな! 問題の条件を満たす素数ならば、p(n+1)+p(n)≡0(mod 8) という式が成立するのか。この式を整理すると……しめた、さっきのp(n+1)-p(n)によく似た形を作れた。
あとはこの式を満たし、かつ、p(n+1)-p(n)=2も満たす自然数nが無数に存在することを示せばいい。
それは難しくない。二式をにらんで、両方を満たす自然数の候補を見つければいい。……うん、すぐにいくつか見つかった。おそらくこれらは、こういう漸化式を満たす……うん、それも示せた。
この漸化式で得られる項がすべて自然数であるのは自明だ。さらに、この数列が狭義単調増加、つまりすべての項が異なる自然数であることも自明だ。この漸化式を満たす自然数はすべて問題文の条件を満たすし、しかもこの漸化式を満たす自然数は無限に存在する。
よって、差が2の素数の組のうち、1の位が3と5であるようなものは、無数に存在する!
「って、双子素数無限にあんのかよ!!」
数学に夢中になるあまり、ツッコミが遅れた!!
「うるさいな。問題を解くだけでなに騒いでるんだ」
「だってよぉ、双子素数がよぉ」
美法に問題を見せると、彼女は鼻で笑った。
「素数の一般項を知ったとき、真っ先に階差を取らなかったのか? 私は取ったぞ」
「俺のときはそんな状況じゃなかったんだよ……」
「そうか……。まぁ、私も初めて知ったときは、そんな反応をしたな」
美法でもツッコミを入れることあるのか。
この問題文に出てくる「差が2の素数の組」のことを、俺達の世界では双子素数と呼ぶ。そして双子素数が無限にあるのかどうか、俺達の世界ではまだわかっていない。だがこの世界では、素数の一般項から簡単に導けることなのだ。
俺達の世界では、素数に関する未解決問題が大量にある。だが考えてみれば、この式が一本あれば、それらのほとんどがたちどころに解けてしまう。
恐ろしい式だ。
持ち帰りたい。元の世界に持ち帰りたい。だが、あまりにも危険な代物だ。まず間違いなく歴史を変える。数学界に激震が走るだけでなく、素数の未知性を利用した情報工学の仕組みも大きく変わってしまう。
それに俺は、この式の証明を知らない。証明しない限りは、どんなに正しそうに思えても、正しいとは認められない。それが数学という学問のルールだ。
仮に俺が、元の世界でこの式を発表しても、証明をつけなければ誰もこの式を信じないだろう。検証すらされないに違いない。
なるべく、この式は覚えないようにしよう。そして、証明は決して見ないようにしよう。見たくて仕方がないが、我慢しよう……。
そんな風に大騒ぎしながら、俺達は問題を解き進めた。
俺がどうしてもわからない問題は美法に協力を仰いだし、美法がわからない問題は俺も一緒に考えた。
こういう活動は久しぶりだった。数学研究部では毎日繰り返していたことだったが、こっちの世界に来てから、そんな暇はなかった。
楽しい。
やっぱり、誰かと数学の話をするのは、すごく楽しい。
ふと見ると、美法も笑顔だった。こいつがちゃんと笑っているところを見るのは初めてだ。
きっと美法も、こういうことがしたかったのだろう。しかし、元の世界ではそれは叶わず、こっちの世界に来て初めて、こういう体験をした。
だから美法は、帰りたくない。
俺はやっと、美法の気持ちがわかってきた。
俺が数学研究部に居続けたいように、美法はこの世界に居続けたいんだ。
何問か解けたところで、食堂のドアベルが鳴った。イリハが帰ってきたのだ。もうそんな時間か。
すると、椅子を倒さんばかりの勢いで、美法が立ち上がった。
「ど、どうした」
美法は、唇をキュッと結んだ。
「謝ってくる」
そういえば喧嘩中だった。
美法が玄関ホールへ向かうのを追った。
玄関ホールで、美法とイリハが向き合っていた。帰ってきたばかりのイリハは、飛び出してきた美法に驚いていた。
「どうしたんですか、ミノリさん」
「あの……えっと、その……」
さっきまで元気だった美法が、また今朝みたいにしおらしくなっている。イリハと目を合わさず、背中で手を組んだり解いたりしている。
「き、昨日のことだが……」
美法は両手を固く握ると、頭を下げた。
「すまな……いや、ごめんなさい! イリハのこと、よく知りもせずに、馬鹿にしてしまった!」
イリハは困ったように俺を見た。「どうしたらいい?」と顔に書いてある。俺はただ、力強くうなずいた。イリハの心のままに行動してくれ。
「ミノリさん。たしかに昨日のあなたの言葉には、カチンと来ました」
美法の肩が震えた。その肩にイリハが手を置き、美法の顔を上げさせた。
「でも、相手のことを知らなかったのは、私も同じです。あなたのつらさなんて、私のつらさに比べたら、どうせ小さなものだ……なんて思ってしまいました。本当にごめんなさい。ミノリさんだって、十分つらかったはずなのに」
肩に置いていた手を、美法の頭に置く。
美法の瞳が、潤み始めた。
「つらい……?」
まるで、その言葉を初めて知ったかのように、何度も繰り返した。
「つらい、つらい……。そうか、私はずっと、つらかったんだ……ずっと、ずっと、つらかったんだ。数学の話ができなくて、つらかった……!」
そして、とうとう泣き始めた。
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