第9話 それぞれの事情
ところで、イリハが食堂に来たのは、夕食を作るためだった。気付かなかったが、外はすっかり真っ暗になっていた。
「たまには手伝うよ」
俺は席を立った。今までずっと、イリハ一人で三人分の料理を作っていたのだ。
イリハは断ろうとしたが、文字の練習を休憩したかった俺は、半ば強引にキッチンに入った。
キッチンの見た目は、元の世界とあまり変わらない。食べ物を切ったり混ぜたりできる清潔で平らなテーブルと、水が出てくる蛇口。おそらく火を使うための場所に、鍋のような調理器具が置かれている。反対の壁には、食器をしまう棚や、大きな家電(家魔)があった。
「そういえば、この世界では何を食べているんだ?」
「なんだ? 楯太郎は今日まで、何も食べずに過ごしてたのか?」
「そんなわけないだろ。ただ、ずっと考え事をしていて、料理が目に入っていなかっただけだ」
以前、数学研究部の部室で弁当を食べていたとき、有梨がこっそり俺と自分の弁当を入れ替えたことがあった。だがそのときの俺は、それに全く気付かずに最後まで食べ切ってしまった。そのくらい、俺は一度数学を考え始めると、周りのものが見えなくなる。
そんなわけで、俺は今日まで、この世界で何を食べているのか知らずにいた。違和感なく食事できていたことから、元の世界のものとそう変わらない食べ物だと思うのだが。
「何をと言われましても……普通に、お肉とか、お野菜とかですよ」
「その肉ってのは、どういう肉だ? まさか、魔物の肉だったりするのか?」
「魔物?」
エプロンを付けながら、イリハは首を傾げた。
「魔物って、あの、ファンタジー小説とかに出てくる、あれですか?」
「え? あ、ああ。うん、たぶん」
魔法があるこの世界でのファンタジー小説がどのようなものか想像もつかないが、俺はとりあえず肯定した。
「ああいうのはお話の中にしかいませんよ。現実にいるのは、イソスとかトングーとか……これ、翻訳されてますか?」
「いや。そのまま聞こえている」
「当然だろう。イソスもトングーも、この世界の動物の名前だ。あっちの世界には存在しない」
「どんな動物なんだ?」
「強いて言えば、イソスは牛、トングーは鶏だ。味も似ている。この世界で最も一般的に食されている家畜だ」
「ちなみにイリハにはなんて聞こえてる?」
「そのまま聞こえていますね。ウシと、トリですか。そちらの世界ではそんな名前なんですね」
イリハは大型家電の扉を開けて、中から肉と野菜を出した。そして、一つ一つの名前を俺たちに教えてくれた。ゴブリンの肉とかマンドラゴラの根っことか、そういうのは一切なく、見た目だけなら元の世界にもありそうな食べ物だった。
「せっかくの異世界なんだし、魔物の肉とか食べてみたかったけどな」
「イリハも言っていたが、この世界にも魔物はいない。理由はわからないが、魔力を持ち、魔法を使えるのは、原則として人間だけのようだ」
「動物は、神様への敬愛がないからだとされています。そもそも、神様は愛し愛されるために人間を作り出し、その奴隷として動物を作ったとされていますから」
なるほど。そういう世界観なのか。
そう納得したが、ふと別の疑問が浮かんだ。
「あれ? じゃあ、魔王って何者なんだ? てっきり、魔物の王なんだと思っていたが」
ファンタジー小説で魔王と言えば、全ての魔物を統べる王だ。魔王の一声で魔物達が人間に襲いかかり、戦争が始まったりするイメージがある。
「言い伝えによれば」
とイリハは語った。
「魔王は、大昔の人間だそうです」
「人間? ただの、普通の人間ってことか?」
「普通の人間ではなかったそうです。強大な魔力を持ち、ミノリさんのように、指を振るだけでどんな魔法でも使えたとか。数百年前、魔王はごく普通の人間としてこの世に生まれましたが、その強大な魔力は、やがて人々の恐怖の対象となりました」
「それで封印されたってことか?」
「いえ。実は魔王は、人類を滅ぼそうとしたそうです」
「人類を?」
おいおい。思った以上にしっかり魔王じゃねえか。
「魔王はその罪により、封印刑に処されたとか」
「刑? 刑罰として封印されたのか?」
「はい」
「どうして死刑じゃないんだ? 殺した方が安全だったんじゃ……」
イリハは怪談話をするかのように、声を潜めた。
「殺せなかったそうです」
「え?」
「どんな方法を使っても、必ず失敗したそうです。正面から殺すのも、隙をついて暗殺するのも不可能だったとか」
「どうして?」
「それは、歴史の謎です」
どういうことだ? 正面からの攻撃を防げるのはまだわかる。魔王は指を振るだけで魔法が使えるから、それで攻撃を失敗させたのだろう。だが暗殺まで失敗したのはなぜだ。常時防御魔法を張っていたとかだろうか。
「だから仕方なく封印したそうです」
そんなとんでもない化物が相手なのか。
「だったら、悠長に数学の課題なんてやってる場合なのか? 早くしないと、魔王が人類を滅ぼすんじゃ」
「それは大丈夫みたいです。魔王が初めて封印を破ったとき、六十四日くらい、そのことに気付いた人がいなかったそうですから。理由はわかりませんが、すぐには人類を滅ぼせないようです」
六十四は、八進法で100だ。おそらく正確な数字ではない。
だが、そのくらい長い間、魔王は何もしなかったってことだろう。封印が解けた直後は魔力が減ってるとか、そんな理由だろうか?
どちらにせよ、急ぐに越したことはないだろうけど。
* * *
調理はすべて、魔法を使って行われた。
つまり、俺の出番はなかった。
「役立たなくてすまん……」
テーブルの上には、イリハが煮た野菜のスープや、美法が焼いたイソスの肉が並んでいた。
「このくらいのことでそんなに凹むとは思わなかったな」
「凹むというか、恥ずかしいというか……カッコつけてキッチンについていったのに」
「気にしないでください、ジュンタローさん。お皿を出してくれたじゃないですか」
それしかできることがなかったのだ。
俺達は食事を始めた。イリハが、植物の種子を粉末にし水と練って焼き固めたもの――要するにパンだ――を食べながら、俺を慰めた。
「そうだ。じゃあ、私が出かけている間に、お掃除をお願いします。今までは私が帰って来てからお掃除していましたが、これからはジュンタローさんにお願いします!」
「わかった、そのくらいなら」
俺は快諾した。名誉挽回のチャンスだ。さっそく明日から掃除しよう。
「そういえば、イリハってほとんど毎日どこか出かけてるけど、どこに行ってるんだ?」
「もちろん、研究所ですよ」
「ふぅん、研究所か…………けんきゅうじょ!?」
俺と美法の声がハモった。
「イリハって何者なの!? 研究者なのか!?」
「その卵ですね。まだ訓練生なので」
「訓練生?」
「ええと、訓練生というのは……」
イリハの長い説明を要約すると、こういうことだった。
この国の国民は、八歳から十六歳までの八年間、公教育を受ける。その後、本人の希望や能力に応じて、訓練校と呼ばれる学校へ進学する。そこで、仕事に必要な知識と技能を身に付けるのだ。
イリハは、数学者の訓練生だった。王立の基礎数学研究所で、数学者になるべく専門教育を受けている最中なのだという。
「大学院生みたいなものか」
「じゃあ、イリハって何歳なんだ?」
「十七歳です」
「年上だったのか……」
「ジュンタローさんはおいくつなんですか?」
「十六だ」
「それでは、今年卒業ですか?」
「いや、俺達の国のシステムは、そうはなってなくて……」
俺もまた、長々と日本の教育システムを説明した。
「複雑なシステムですね」
「この国よりはそうかもな」
「ミノリさんも高校生なんですか?」
「いや。中学二年生だ」
えっ、中学生!?
てっきり同い年か、なんなら年上だと思っていた。
「まぁ、システム上の話だがな」
美法は吐き捨てるように付け加えた。
システム上って、なんでそんな言い方をするんだ?
「もしかして美法、学校行ってないのか?」
「ふん。だったらなんだ。あんなところ行かなくても、勉強はできる」
「どうして行っていないんですか? まさか、ミノリさんも差別とか……」
「別になんだっていいだろ。そんな重い話でもないし、たまに行ってる。その通学中に事故に遭って、この世界に来ることになったが」
「つまりミノリさんは、行く権利があるのに行ってないってことですか?」
「そうだ」
「ダメですよ!」
イリハが、急に声を荒げた。なぜか本気で怒っているようだ。
「学校は行くべきです!」
「なんのために? あんな奴らと戯れるなんて、時間の無駄だ」
「だとしてもです! 正規の教育を受けて、正式に卒業すべきです。世界に存在を認められるためには!」
「はぁ?」
話が大ごとになっている。存在を認められる?
「もしかして、イリハは差別のことを言っているのか?」
「そうです。私が認められる方法は、学歴を付けることだけでした」
「それはこの世界の事情だ。私には関係ない」
「なっ」
「それに私は、あんな世界に認められたいとは思わない。そんな必要はない」
イリハは、信じられない、という顔をした。
「それでは、どうやって自分の存在を確立するんですか?」
「さっきからなんの話をしているんだ? 私がここにいることは、私自身が知っている。それで十分だ」
「存在というものは、他者に認められて初めて確立するものです。自分自身で自分自身の存在を証明することはできません!」
ああ、そうか。
これは、直観主義だ。
この世界の人間にとっては、自分自身ですら、誰かがその存在を証明しない限り、存在すると確信できないんだ。そういう心の構造をしているんだ。
そしてそれは、人種差別を、俺達の世界よりさらにひどいものにしただろう。
人種まるごと存在を認められなければ、彼らは自分たちが生きているかどうかも確信が持てない、そんな恐怖のどん底に閉じ込められるに違いない。
「落ち着けよ、イリハ。俺達はこの世界の人間とは、根本的に感覚が違う。自分自身の存在は、自分自身で証明できると信じているんだ」
イリハは俺まで睨んできた。
しばしの間、食堂は凍り付いたように静かになった。
沈黙を破ったのは、イリハの深呼吸だった。
「羨ましいです。その感覚を、私も身に付けたかった」
「ふん。そんなこと言って、イリハだって学校に通えているじゃないか。大した差別はないんじゃないか?」
「おい、バカ、やめろ」
「……たしかに私は、八歳の頃から正規の教育を受けることができました。今の国王になってから、この国でのクユリ人差別は徐々に是正されているそうです」
美法が、勝ち誇った顔で俺を見た。
「ですが、私が正規の年齢で入学できたのは、両親が高名な数学者だったからです。国家に認められるほどの実力を持った二人だったから、こうして城下町に住み、娘を学校に通わせることもできたんです」
美法が、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「最初のうち、学校にクユリ人は私一人だけでした。今ではこの国のほとんどのクユリ人が学校へ通えていますが……そのように変わった理由のひとつは、私が学校で優秀な成績を取り続けたからです。クユリ人もライデ人と差がないと、証明し続けたからです」
正直、イリハが、こんなに強い人間だと思っていなかった。ただ数学が好きなだけのおっとりした少女だと思っていたのに。
直観主義だから、という理由だけではない。イリハには、自分の人種への誇りと、クユリ人を救いたいという強い熱意がある。国王の課題をひとりでやると言ったのも、こういう理由からなのだろう。
さすがの美法も、反論する様子はなかった。
代わりに、小さな声でイリハに質問した。
「いじめられたりしたか?」
「最初のうちは。でも私が学校で一番の成績を取って以来、ほとんどなくなりました。未だに絡んでくるのは、あのモルダカさんだけです」
「そうか。私は逆だ」
「逆?」
「中学一年のとき、私は定期テストで、全教科満点を取った。当然、先生たちは私を褒めた。だが先生たちが私を認めれば認めるほど、私はクラスで孤立し、いじめられるようになった。それで私は学校に行かなくなったんだ」
美法はシニカルに笑った。
「私は勉強が好きだからな。勉強するといじめられる学校になんて、用はない」
二人の話を聞いて、俺はなんて恵まれた人生を送ってきたのだろうかと、感じずにはいられなかった。
中学でも高校でも、いじめられたことはない。高校は偏差値も高く、勉強するのが普通だ。何より数学研究部の三人とは、毎日一緒に数学ができる。
俺がこの二人にかけられる言葉は、何もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます