第8話 異世界に行ったら十進法がなかった

 本腰を入れて課題を解き始めると、すぐに大きな問題にぶち当たった。数学以前の問題だ。


 まず、文字が書けない。俺の翻訳魔法は、読む・聞く・話すには対応しているが、書くことだけはできなかった。


「いや、待てよ。俺はこの国の言語を話していない。俺が話しているのは日本語で、相手も日本語を聞いている。だけど、意味を理解できるようになっている。ということは、文字もそうなんじゃないか?」


 そう思って日本語で文章を書いてイリハに見せたが、

「なんですか、これ?」

 と言われた。やはりダメらしい。


「俺、この課題、できる気がしない……」

 食堂のテーブルに顔を突っ伏すと、美法はため息をついた。

「初日から弱音を吐くな。頑張って真似して書いてみろ」

 そう言う美法は、俺の横で、辿々しくこの世界の文字を書いていた。

「え、なんで書けるんだ? そういう魔法か?」

「違う。練習したんだ」


 なんと美法は、知識人たちを軟禁していたとき、文字の練習をしていたという。


「誘拐した人間の中に言語学者がいてな。その人に一から教わったんだ」

「教わる相手がオーバースペックすぎる」

「そうだったかもしれないな。その人は日本語についてしつこく聞いてきたよ。全く聞いたことのない言語だが、いったいいつの時代のどこの言語だ、とね。あまりにしつこいから、私が異世界人であることを打ち明けざるを得なかった」


 俺たちの翻訳魔法は、音としては原語で聞こえる。そのせいで起きた出来事だな。


「そしたら今度は、あっちの世界の言語についてあれこれ聞かれて……私は日本語と英語くらいしかわからないから、あまり満足に教えてあげられなかった。こんなことなら、もっと色んな言語を学んでおくべきだったよ」


 言語学者と、知的好奇心の強そうな美法の会話は、なんとなく想像がついた。互いに互いの言語を教え合い、盛り上がったに違いない。


「ずいぶん楽しそうなことしてたんだな」

「それはもう!」

 美法は目を輝かせた。

「最終的に、誘拐した人たち全員に私が異世界人だって明かして、互いの世界の学問を教え合ったんだ!」


 いやそれ人質も楽しんでるな!?

 そうか、誘拐された人たちが美法の情報を話さなかったのは、全員が美法と仲良くなってしまったからなんだ! というか、美法に同情したのだろうな。突然異世界から連れてこられた、哀れな少女に。


「で? この国の言語はどうなっているんだ?」

「この国で使われる主な言語は二つ。人口の九割がライデ語を使い、残り一割がクユリ語を使うそうだ」

「クユリ語って、イリハの……?」

「ああ。彼女の民族の言葉だ。イリハがいつも喋っているのはライデ語だが、おそらくクユリ語も使えるんじゃないか?」


 考えてみると、イリハやイリハの家族は、どういう経緯でこの国に暮らしているのだろう。俺はこの世界の歴史や社会事情について、まだ何も知らない。うっかりイリハに失礼なことを言ったり、傷付けたりしてしまう前に、知っておかなきゃな。


「私が教わったのはライデ語だけだから、まずはライデ語を教えよう。クユリ語が知りたかったらイリハに聞いてくれ」


 美法は指を振って、紙とペンを出した。自分と俺の前に紙を並べて、ペンを握る。


「ライデ語には、大きく分けて表音文字と表語文字がある」

「へぇ。日本語に似てるな」

 表音文字は平仮名みたいに、音だけを表す文字。表語文字は漢字みたいに、音と意味を表す文字だ。

「表音文字は全部で二十文字。そして表語文字は、全部で千個以上ある」


 ……は?


「せん!? そんなにあるのか!?」

「数万個の漢字を使う日本人が何を言う。千個ならむしろ少ないだろう?」


 そりゃそうだが……これから学ぼうという人間にとっては、大きな問題だ。


「表語文字はほとんどが動詞だ。しかも、人間の動作を基にした象形文字が由来だ」

 美法は愉快そうに笑った。

「ある意味、直観主義的な文字体系と言えるな。人間の行動に依拠している」

「人間がそれをできるかどうかで、文字になるかどうかが決まったってことか?」

「ああ。例の言語学者によれば、人間が発話による言語を獲得する前に、ジェスチャーによる言語を持ったかららしい」


 俺たちの世界とは、言語の成り立ちからして違うのか。なぜそうなったのだろうな?


「しかし楯太郎がまず覚えるべきなのは数字だろう。私が書くから真似してみろ。まず、これが0だ」


 美法が書き始めた文字を、俺は真似して書いていき——

 そして、二つ目の大きな問題にぶち当たった。


「これが六。そしてこれが七。……この八つが、この世界の数字だ」

「は?」


 数字が、七まで。

 八つしかない。


「つまりこの世界では……」

「ああ。八進法が使われている」

「勘弁してくれぇー!!」


 言われてみれば、思い当たる節はあった。国王に出された課題は六十四問。それを八日で解く。中途半端な数だと思ったが、八進法に直せばそれぞれ100と10。この世界の人間にとってはキリの良い数なんだ!


「0があるだけマシだと思え」

「そうかもしれんが……。ああっ! じゃあ、課題にある整数問題は……」

「もちろん、全部八進法で解くんだろうな」

「勘弁してくれぇー!!」


 そりゃ、解けるよ? 解けないってことはない。だが、十進法で解くのに比べて、格段にスピードは落ちる。計算ミスも増えるだろう。


「どうしたんですか?」


 ちょうどイリハが食堂に入ってきた。俺たちの手元の紙を見て、首を傾げる。


「文字の練習ですか?」

「そうだ」

「それでどうして、ジュンタローさんはそんなに苦しんでいるんですか?」

「この世界が八進法を使っているからだよ……」


 イリハの耳には「十進法」と聞こえたことだろう。


「ああ、なるほど。世界が違うと、進数も違うんですね。ジュンタローさん達の世界は、何進法なんですか?」

「十進法だ」


 イリハの耳には「十二進法」と聞こえたことだろう。


「面白いですね。どうして十進法なんですか?」

「どうしてと言われてもな……。指で数を数えると、両手で十になるからだと思うが」

「え? 両手で数えたら、八になりませんか?」

「え?」


 俺は真顔になり、イリハの手を凝視した。指は片手に五本ずつ。両手合わせて十本ある。


「いや、十になるだろ。こうやって、一、二、三、って数えれば」

 俺は人差し指、中指、薬指、と順番に立てて、両手で十まで数えて見せた。

 イリハはそれを、物珍しそうに眺めた。


「器用な数え方をしますね。この世界で数を数えると言ったら、こうしますよ」


 そう言ってイリハは、器用な数え方をした。

 まず、親指と人差し指で輪っかを作り、「一」と言った。次に中指と人差し指をくっつけて「二」、薬指と中指をくっつけて「三」、そして小指と薬指をくっつけて「四」と言った。

 簡単に言えば、次々と輪っかを作ったのだ。

 この数え方ならば、確かに片手で四、両手で八になる。


「面白い数え方だな」


 俺たちは互いに、異世界の数え方を真似した。初めはぎこちなかったが、何回かやればすぐに慣れた。二進数を指折りで数えるより簡単だ。


「直観主義的だな」指を動かしながら、美法が言った。「実際に輪を構成することで、数を数えているんだ」

「ここでも直観主義かよ! どうしてそんなに直観主義的な考え方が浸透しているんだ? この世界の人間は、全員数学者なのか?」

「それは逆だろう。この世界の人類は、もともと直観主義的な考え方をしていたんだ。だから、直観主義数学が発展した。この世界の人間にとっては、その方が自然な考え方だったんだ」

「自然ねぇ」


 俺たちにとっては、全く自然ではない考え方。それを自然の感覚として身につけている人たちがどんな思考回路をしているのか、俺には想像もつかなかった。


「前から聞きたかったのですが」

 と、イリハが俺達の会話に割り込んできた。

「お二人がよく言っている、チョッカンシュギとは、なんですか?」

「直観主義ってのは……」


 ん? どう説明すればいいんだ?

 俺達の世界なら、「普通の論理から、排中律を除いたものだ」って説明で済む。だがこっちの世界では、俺達と「普通」が違う。

 だから、こういう説明になるのかな?


「この世界で普通に使われている論理のことを、俺達の世界じゃ直観主義論理って呼ぶんだ」

 だがこの説明に、イリハは混乱した。

「えっ? お二人の世界では、私達の世界のことが知られているんですか?」

「ああ、いや、そうじゃない。俺達の世界では、数学の公理を変えたらどんな体系が得られるかを調べることが多いんだ。そうして見つかったたくさんの体系のうちのひとつが、直観主義論理なんだ」


 数学は、いくつかの公理ルールを出発点にして、そこから何が得られるかを調べる学問だ。たとえば「どんな二点を選んでも、そこを通る直線が存在する」などが公理の一種だ。公理は基本的に、誰もが「当たり前に正しい」と感じる事柄を選ぶことが多い。

 数学の対象は数や図形に限らない。数学を構築する「論理そのもの」にも及ぶ。論理にも出発点となる公理があり、俺達はそれをもとに推論を行っている。


「つまり私達の世界の論理とは、公理がが違うってことですか。ジュンタローさん達の世界では、どんな公理が使われているんですか?」


 直観主義論理は、普通の論理から排中律を除いたものだ。イリハへの説明は、これを逆にすればいい。


「この世界の論理に、排中律を加えたものだ」

「ハイチューリツ?」


 イリハは首を傾げる。どうやらこの世界では……少なくともイリハには、俺達の世界の論理は知られていないらしい。


「どんな公理なんですか?」

A∨¬AAまたはnotAは常に真。つまり、どんな命題も、正しいか正しくないかのどちらかだ、という規則だ」


 俺の説明に、イリハは。

 心底驚いた。


「え……ええっ!? そ、それはつまり、そちらの世界ではってことですか!?」

「はい?」

「あれ? でもリーマン予想はまだ解けていないんですよね? それに素数の一般項も知らないようでしたし……」


 イリハは何を言っているんだ?

 俺が理解に苦しんでいると、美法が小さく笑い出した。


「やはりそういう解釈になるのか」

「どういうことだ?」

「直観主義は人間の行動に依拠する。命題の真偽も、それを人間が証明できたとき初めて決定されると考えるんだ。だから、『どんな命題も正しいか正しくないかが決まっている』ということは、『どんな命題も、正しいか正しくないかが』と解釈することになる」


 俺は俺で、混乱し始めていた。

 どんな命題も、それが正しいか正しくないかは、既に決まっている。俺達の世界では、多くの人が素朴にそう信じている。

 それはいわば、神のような絶対的な存在になら、どんな命題も真偽がわかると信じているようなものだ。

 なのにこの世界では、神の存在が信じられているにもかかわらず、命題の真偽が人間の証明に委ねられている。


 いったい、どうしてこんな風になっているのだろう?


 俺と美法は、二人でイリハの誤解を解いた。

 俺達の世界でも、数学が完全解明されているわけではない。

 未解決問題は無数にあるが、それでも、真偽は既に決まっていると仮定しているのだ、となんとか説明した。


「なぜ、そんな不思議な仮定をしているのですか?」

「なぜと言われてもな……。逆に、なんでこっちの世界には排中律がないんだ? 神なら、どんな命題だって真偽がわかるはずだろう?」

「いいえ。神様にだって、できないことや、わからないことはあるに決まっています」

「え、そうなの?」

「当然です。その証拠に、予知魔法は不可能なことが証明されています」

「魔法? ……あっ!」


 そうか、魔法か!

 魔法は、神の力を借りて行う奇跡だ。だから、神にできないことは魔法でもできない。この世界の人達は魔法を通じて、神にも不可能があることを知っているんだ!

 だから直観主義になったんだ!


「そういうことか」

 美法も俺と同じ結論に至ったようだ。

「ずっと疑問だったんだ。なぜ女神には私の行動が予知できなかったのか。なぜ女神が魔王を倒さないのか。答えは簡単。彼女にそれが不可能だからだ」


 なるほど。こいつにチート能力を与えたら魔王を倒しに行かない、とあの神にはわからなかったわけか。


 だがそうなると、次の疑問が浮かぶ。

 なぜ神は魔王を倒せない? 神にすら倒せない魔王を、俺や美法が倒せるのか?


 魔王はいったい、何者なんだ?

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