第4話 イリハの家
俺はいま、出会ったばかりの女の子の家にいる。
イリハの家だ。
しかも、今はイリハ以外誰もいないらしい。
おいおいマジかよ。女の子の家に行くなんて初めてのことで緊張……。
いや、初めてでもないし、緊張もそれほどしていないな。
それに緊張よりも興奮の方が強い。
あの本を、読めるかもしれないのだから。
十数分前のことだ。
この世界が直観主義に支配されているとわかり、俺は放心していた。
本当にこれは現実か? 夢じゃないのか? そんな思考がぐるぐると回っていたが、石畳にぶつけた尻の痛みが、これは現実だと教えてくれた。
しかし俺は、すぐに気を取り直した。直観主義で成立する命題は、古典論理でも成り立つからだ。つまり、この世界におけるリーマン予想の証明は、俺たちの世界でも正しく成立する。
それなら一読の価値はある。俺はそう思い直し、イリハに別れを告げて本屋へ向かおうとした。
するとイリハに「お礼をさせてください」と引き止められた。
いや、礼なんていらない、俺は早くその本を買いに行きたいんだ、と抵抗すると、
「この本、まだ出版されてませんよ」
と、言われた。
「え? じゃあなんで持ってるの?」
「なんでって……この本は、私の両親が書いたものだからです」
「え!?」
表紙をよく見ると、たしかに書いてある。「ラウア&ハティ・アブサード著」と。この二人がイリハ・アブサードの両親なのだろう。
そうか、イリハは「アブサード」の名を俺が知っている前提で話していたが、それは「アブサード夫妻」が有名な数学者だからか。
「本当はとっくに出版されているはずだったのですが、例の事件のせいでまだ……。そうだ、よかったらうちに来てください。まだまだ聞きたいことがありますし、この本も読ませてあげますよ」
そう言われては、行かないわけにはいかなかった。
そして、いま。俺はイリハの家にいた。
イリハの家は、超デカい豪邸……の前に並ぶ質素な家々のうちの一軒だった。
家の中は、ほとんど至るところに本があった。廊下にまで本棚が並び、本が詰まっている。
通されたリビングらしき部屋でも、壁の一面が本棚になっていた。入っているのは数学の本が多かったが、物理学や経済学っぽい本もあった。
イリハは飲み物を出してくれた。ガラスみたいな容器に緑色の液体が注がれている。飲んでみると渋かった。お茶だ。
「じゃ、じゃあ、読ませてもらうぞ」
「どうぞ……と言いたいところですが」
イリハが青い表紙を手で押さえた。
「あなたの話す言葉、聞いたことがありません。失礼ですが、あなたはいったいどこの国の方ですか? あなたの国では、ハイリホウが普通に使われているのですか?」
困った。なんて答えたものか。異世界から来たなんて言ったら、頭のおかしいやつだと思われて、読ませてもらえないかもしれない。
「……日本、という国から来た」
「ニホン?」
ワンチャン、同名の国がある可能性に賭けた。
が、さすがにそんな都合の良いことは起こらなかった。
「知らない国ですね……」
ぐっ、誤魔化せないか。
「すみません、祖国のことを知らないなんて、失礼ですよね。あとで調べます」
「え、あ、いや、大丈夫だ、気にしないでくれ。小さい島国だからさ。ハハハ……」
どうやら誤魔化せたようだ。
「そのニホンという国の数学者は、ハイリホウを使っているのですか?」
「まぁ、そういうことになるかな」
不思議な話ですね、とイリハは首を傾げていた。
「と、とにかく、この本、読ませてもらってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
まるで「待て」をされていた犬のようだ。俺は興奮で震える手で、青い表紙をめくった。
* * *
「わからん!!」
少しして、俺は顔を上げた。
まるでわからない。何をやりたいのか、さっぱりわからない!
俺たちの世界の数学とは、根本的に何かが違う。背理法がないとか、そんなレベルの話じゃない。証明に対する考え方が、まるっきり違う!
論理は追える。補題の証明の正しさも、理解はできる。だが、それが何を目指しているのかが全く飲み込めない。
それに、俺の知らない定理がわんさか出てくる。「〇〇の定理より」と翻訳はされるが、その定理を俺が知らないのだ。文脈から定理の内容は推測できるが、見たことのない定理があまりにも多く、ついていけない。
「マジでわからん!!」
俺は机に突っ伏した。
「すごい集中力でしたね」
台所らしきところから、イリハが出てきた。さっきと服装が違う。エプロンみたいなものをつけていた。
「もう夜ですよ」
「えっ!?」
俺は「少し」だけ読んでいたつもりだったのだが……窓の外はもう真っ暗だった。
「ジュンタローさんは、この辺に住んでいるんですか?」
「えっと……旅の途中なんだが、実は宿がなくて」
「あら、大変。それじゃ今日はうちに泊まりますか?」
「えっ。ええっ!?」
さすがに女の子の家に泊まったことはない。
それに、両親はどうした? まだ帰って来ないのか?
「ご、ご両親は?」
そう聞くと、イリハは困った顔をした。
「旅の途中なのでご存知ないのかもしれませんが……例の事件に巻き込まれているんです」
「例の?」
そういえば、さっきもそんなこと言っていた。例の事件のせいで出版できていない、って。
「魔王が復活したニュースはご存知ですよね」
「!」
俺は反射的に背筋を伸ばした。
そうだ、数学に夢中になって忘れていた。
俺は、魔王を倒さねばならないのだ!
「し、知ってる! それが何か、関係あるのか?」
「はい」
そして、イリハは。
「例の事件」とやらを話してくれた。
「私の両親は、魔王に誘拐されたんです」
「誘拐!?」
ある意味、最も魔王らしい犯罪だ。クッパもガノンドロフも、いつもお姫様を誘拐している。
でも、イリハの両親は数学者だ。姫じゃない。
「なんで魔王はそんなことを?」
「理由はわかりません。しかし魔王は、国中の知識人を何人も誘拐しているんです。それで、私の両親も」
「身代金の要求とかは?」
「ありません。魔王は誘拐するだけで、何も要求しないんです。国からも兵士が派遣されているのですが、逆に全員捕まったらしく……」
もしかして、人質なのだろうか。
さっきイリハは、魔王が「復活した」と言っていた。つまり、魔王は過去に少なくとも一回は倒されている。今度は倒されないように、人質の準備をしているのでは?
だとすると、魔王との戦いはかなり厳しいものになりそうだ。
そもそも、俺に魔王を倒す力なんてあるのだろうか。
兵士が負けるような相手だぞ? 平和な日本に生きてきて、なんの戦闘訓練も積んでいない高校生の俺に、どうやってそんな魔王を倒すことができるんだ。
元の世界で生き返るどころか、この世界で殺される確率の方が高いんじゃないか?
嫌な想像に体を震わせていると、イリハが強気な口調で言った。
「ですから、私も魔王城を攻めようと思うんです」
「は!?」
え、いまなんて?
魔王城に、攻める?
「イリハが!? なんで!?」
「だって、あそこには父と母が閉じ込められているんですよ? 兵士が頼れないのなら、私がやります!」
「いや無理だろ! 兵士ですら勝てない相手に、どうやって勝つんだ!」
俺の慌てっぷりを見て、イリハは冷静に説明した。
「ジュンタローさんは、おそらく誤解しています。私は、魔王と戦闘はしません」
「え?」
「国から派遣された兵士は全員捕まりましたが、その後一人だけ帰ってきたんです。彼は、魔王からの伝言を預かっていました」
その伝言は、新聞でも報じられたという。
「『魔王が出す数学の問題を、誰か一人でも解けたら、人質を全員解放する』と」
は? 数学?
「なんで魔王がそんなことをするんだ?」
「わかりません。ですが、どうも魔王は数学が好きなようです。誘拐されている人も、半数以上は数学者だとか」
意味がわからない。
だが、あの女神が俺を選んだ理由はわかった。
魔王が出すその問題を、解けばいいってことだな?
「よかったら、それ、俺もついていっていいか?」
「本当ですか!? それは心強いです!」
イリハは両手を合わせて喜んだ。
「本当は、一人では心細かったんです。ジュンタローさんは数学が得意そうですし、頼もしいです!」
「どこまで力になれるかはわからないけどな」
自分で言うのもなんだが、俺は数学にはちょっとだけ自信がある。魔王が出す問題も、イリハとなら解けるだろう。
……本当か?
この世界には背理法がない。それでいて、素数の一般項が見つかってたり、リーマン予想が解かれたりしている。
はっきり言って、歪だ。この世界でどんな形の数学が発展しているのか、まるでわからない。
もし、俺が全く知らない定理を前提とした問題が出題されたら、手も足も出ないだろう。
例えば、素数の一般項を既知とした整数問題なんて出たら、俺にはどうすることもできない。
うまくイリハと連携できればいいが……。
「……なぁ、イリハ。もう一度、素数の一般項を見せてくれないか?」
俺の妙なお願いに、イリハは黙って従ってくれた。
俺は紙に書かれたその数式を、お守りのように、大切に手に握った。
「それで、魔王城ってのはどこにあるんだ? ここから遠いのか?」
イリハはキョトンとした。
「すぐ近くですよ。というか、お向かいさんですよ」
「……えっ?」
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