第2話 異世界に行ったらリーマン予想に出会った

 目を開けると、俺は人混みの中に突っ立っていた。俺はここに突然現れたことになるはずだが、誰もそのことに騒いでいない。誰一人として気づかなかったらしい。


「いらっしゃい。今日は良い肉が入っているよ」

「どうですこの布、良い色でしょう」

「こちら、今月の新刊だよ。あの難解な転移魔法を、世界一わかりやすく解説した本だ!」


 周囲の人たちはみんな、目の前の小さなテントに夢中だ。どうやらここは市場らしい。店員との会話や、店頭に並んだ商品の品定めに集中していて、誰も俺のことになど注目していなかった。


 周りの会話を聞くだけで、わかることがいくつかあった。

 第一に、この世界には魔王がいるらしいが、少なくとも今この場所に限っては、とても平和に見えること。

 第二に、言語の壁がないこと。彼らの話す言葉も、書かれた文字も、日本語でないことはたしかだが、俺にはその意味が日本語のようにするすると理解できた。

 第三に、この世界には魔法があるらしいこと。それも、解説書が売れるくらい、広く一般に普及しているようだ。

 そして第四に、この国の貨幣単位が「ジー」であること。今後は「G」と表記しよう。


 そういえば、俺はどのくらい金を持っているのだろう。ポケットに手を突っ込もうとして、俺は自分が学ランを着ていないことに気がついた。

 見たことない服だ。軽くて薄い、黒色のズボンと、黄色味がかったワイシャツのようなものを着ている。その上に、似た色のポンチョのようなものを羽織っていた。

 周りを見ると、同様の服装の男女がちらほらいる。この地域ではごく一般的な服装のようだ。


 ポンチョの内側にポケットがあり、そこに巾着袋が入っていた。開けると、中から金色の硬貨が何枚も出てきた。当座のしのぎにはなるだろう。

 状況を確認できたことで、俺はひとつの問題にぶち当たった。


 俺はこれから、一体どうすればいいんだ?


 魔王を倒せと言われたが、そいつは一体どこにいるんだ?

 とにかく情報が足りない。魔王を倒し、元の世界に戻るためには、まず情報が必要だ。

 ここは市場だ。店員に聞けば何か情報が得られるかもしれない。RPGみたいだな。

 それか、新聞だ。「魔王が現れた」なんて事件、新聞に載っていないわけがない。


 暇そうな店員か新聞を探して、俺は市場を歩き始めた。石畳の上を、履き慣れない布みたいな靴で歩いた。


 隅から隅まで歩いても、暇そうな店員は見つからなかった。どこも活気付いてやがる。

 新聞が売られてそうな店も見つからない。こういう場所では売っていないのだろうか。


 俺は市場から離れ、道端で腕組みした。

 困った。

 何をしたらいいのか、全く分からない。

 どこかの店員に無理やり話を聞きに行くしかないか。


 そう思って歩き出そうとしたとき、悲鳴のようなものが聞こえた。


「待って! 返して!」


 少女の声だ。何か事件か?

 立ち止まると、脇道から出てきた少年に追突された。


「うわっ」

 痛ってぇ! 石畳に尻餅をついた俺の尾てい骨に、鋭い痛みが走った。

 ぶつかってきた少年も尻餅をついて、痛そうに尻をさすっていた。


「いてて……何するんだ!」

「いや、そっちがぶつかって来たんだろうが」

 言い争っていると、少年の後ろから少女が走ってきた。

 長い銀色の髪が目を引く美少女だった。赤茶色の瞳にうっすらと涙を溜めている。


「追いついた! 返してください、その本!」

 少女は涙目だったが、語気は強かった。絶対に譲らないという決心を感じた。

「嫌だね。これはお前みたいなクユリ人は読んではいけない本だ」

「なんでですか! そのクユリ人が書いた本ですよ!」

「俺の親父の論文をパクっただけじゃねえか」


 少女が何か言うたびに、少年が囃し立てている。

 クユリジン? 日本語に翻訳されないってことは、この世界独自の用語だろう。文脈から考えて、あの少女の人種か民族の名前に違いない。それも、「下に見られる」タイプの。


「おい、あんた」


 俺はほとんど反射的に、少年の肩をつかんでいた。


「その子の本なんだろ? 返してやれよ」

「なんだお前、クユリ人に味方するのか?」


 少年が俺の手をつかんだ。しかしその力は弱々しい。俺の方が何倍も強そうだ。

 だが。


「"トンホール"、手を離せ」


 少年が唱えた瞬間、俺の手は一瞬で彼の肩から離れた。目に見えない不思議な力で引っ張られたようだ。

 まさか、いまの、魔法か? 魔法で引き離された?


 少年が俺をじろじろと睨む。

「気安く触るな。俺はジェロノ家の長男、モルダカ・ジェロノだぞ?」


 いや知らんし。

 おそらくモルダカ少年はこの国の貴族か有力者の子供なんだろう。

 道ゆく人々は、俺たちを見て見ぬふりして通り過ぎていく。自国の貴族と被差別民族が言い争っている現場なんて、誰も首を突っ込みたくはないだろう。


「お前、こいつの知り合いか?」

「いや、知らない。初対面だ」


 俺が答えると、モルダカ少年は俺の顔を品定めした。


「お前、外国の人間だな? どこの出身だ?」

「どこって言われると……」


 答えようがない。異世界から来たなんて言ったら、この場はどうなるんだ?


「どこだっていいだろ。それよりその本、返してやれよ」

「嫌だね。俺には、お前の命令を聞かない権利がある。だいたい、お前らにこの本の真の価値はわからないんだから、読むだけ無駄だ」

「あなた達だってわからないでしょっ!」


 本を取り返そうと、少女が飛びかかる。モルダカはその攻撃をするりと避けた。


「わかったわかった。じゃあこうしよう」

 モルダカが俺を指さした。

「今から俺が出す問題を、こいつが解けたら、この本を返してやる」


 少女が、ものすごい目力で俺を見た。


「なんでですか? この人は私と無関係です」

「そうだ。俺はたまたまここにいただけだ。いいから返してやれよ」

「うるせぇな。俺にはお前らの命令を聞かない権利がある」


 ……こいつ、さっきから妙な言い回しをするな。

 俺がモルダカの言葉遣いを気にしていると、彼はさらに妙なことを言った。


「安心しろ。出すのは、数学の問題だ」


 ……は?

 ずいぶんインテリなヤンキーだな。貴族だからか?

 モルダカは俺の反応を見て笑った。

「腑抜けた顔だな。お前が取り返そうとしてる本、これだぞ? これを奪い合うんだから、当然だろう?」


 そうして奴が見せてきた本は。


 青いハードカバーで、数百ページはある分厚い本の、その表紙に書いてあった言葉は。


『リーマンゼータ関数のすべての非自明なゼロ点は実部1/2の直線上に存在することの証明』


 な、な、な……。


「リーマン予想だああああーーーーっ!?!?」


 俺の大声に、少女もモルダカもビクッとした。道ゆく人々も、さすがに俺を見た。


 俺がなぜこんなに驚いたのか? それは、これが元の世界では「リーマン予想」と呼ばれ、350年以上も解かれていない難問だからだ。それが、この世界では証明されている?


「な、なんだ? 知ってるのか、リーマン予想」

「あ、あ、当たり前だ! 俺の出身地じゃ、数学上の超々々重要な未解決問題なんだぞ!」

「何言ってんだ、世界中でそうだろ。いや、そう、か。認め難いが、この本にはその証明が載っている。俺もまだ読んでいないが、噂話を信じるなら、ほとんど確実に正しい証明だろう」

「読ませてくれ!」

「嫌だ。俺にはお前の命令を……」

「聞く義務はないって言うんだろ!」


 するとモルダカは(なんと少女も)、変な顔をした。


「聞かない権利がある、だ。間違えるんじゃねえ」

「どっちでもいい! 早く問題を出せ。秒で解いて、その本を取り戻す!」


 少女の本だってことも忘れて、俺はそう叫んでいた。

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