第7話 蓮華と昌繁
岩村城の降伏開城から二週間が過ぎた頃。
蓮華は未だに神社の一室に住んでいた。
領民の多くが蓮華のことを恐れ、麓の村や城内で暮らすのを拒否したためであった。
しかし、蓮華の心は以前と違い色付いていた。
「お帰りなさい昌繁様」
「おう、ただいま。見てくれよこの獲物、俺が仕留めたんだぜ」
「まあ立派なキジだこと」
「今日はキジ鍋にしようぜ」
「うん」
そう、ふたりはこの家屋で寝食を共にしていた。
武田軍の将である虎繁の養子の昌繁には誰も文句を言わず、神主すら近寄らない部屋をこれ幸いとばかりにふたりが占拠したのである。
自由の身となった蓮華だが、相変わらず昌繁以外誰にも触れようとせずこの部屋でひっそりと暮らしている。
そんな蓮華が気を許す少ない人物、それがお艶の方であった。
「お邪魔するわよ。あら? 今日はご馳走みたいね」
お艶の方は蓮華の身を案じ、たびたび蓮華のもとを訪れていた。
城代であったお艶の方は降伏後、敗軍の責務または人質としてその身を差し出し、虎繁に嫁ぐことが決まっていた。
城を虎繁率いる武田軍に明け渡し、城代として皆をまとめるという重圧から解放されたお艶の方であるが、領民たちを心配して激励していたのである。
蓮華も自分を犠牲にして降伏した事実を知り、それでも気丈に振る舞うお艶の方の身を案じつつも、こうして自分のもとに訪れてくれるのを喜んでいた。
影もそんなお艶を認めたようで今では蓮華に触れても襲い掛かるようなことはしなくなった。
「お艶様。昌繁様が立派なキジを仕留めてきましたの」
「いいわね~ 昌繁殿、私もよばれて(いただいて)いいかしら」
「それは構いませんがいいんですか? こんな所に毎日来て……また父上に怒られますよ。一応は人質の身なんですから」
「いいのいいの。行先は伝えてあるし、何よりかわいい蓮華ちゃんが心配なのよね。それともお邪魔だったかしら?」
「お邪魔だなんてそんな」
「そうですよ。俺たちはまだそんな関係ではありませんから」
「はぁぁぁ……まったく、あなたたちは相変わらずなのね」
一緒に暮らしているくせに二人の仲が進展していない事実に、お艶は大きなため息をつく。
今まで人付き合いのなかった蓮華の前に突然現れた男性。男性で唯一蓮華に触れることのできる彼に好意を抱いているのは間違いない。
お互いに惹かれ合って一緒に暮らしているくせに、それ以上仲が進展していない二人にやきもきしていた。
「まあいいわ。私はあなたが幸せならそれでいいの。でも、あんまりのんびりしてると昌繁殿に愛想を尽かされても知らないわよ。昌繁殿は自覚ないかも知れませんが侍女の間で人気なんですから、もたもたしてると言い寄ってくる方も出てくるかもしれないわね」
「そうなのですか?」
「そうよ。たとえばこんな風に」
「なっ!?」
突然お艶の方に抱きつかれた昌繁は驚きの声を漏らす。
年上の、しかも大人の色気の漂う女性に迫られて困惑しつつも、昌繁とて男である。どうしても表情にしまりがなくなる。
「お艶様お戯れはほどほどに……うわあぁぁ! 蓮華これは違う! 誤解だ!」
たじたじになった昌繁を呆然と見つめるは蓮華である。しかし、それはすぐに悲しみの表情に変わり、その目から涙が溢れていた。
「昌繁様とお艶様が……あれ……何で涙が……」
ぐしぐしと自分の手の甲で涙を拭う蓮華。
慌てたのはお艶だった。
「ごめんなさい蓮華ちゃん。本気じゃないから、ちょっと揶揄うつもりだっただけなの。だから泣かないで!」
ちょっとした悪ふざけのつもりだった。だが、まさかこれだけで泣くとはお艶もまったく想像していなかった。
幼子のように泣く蓮華をそっと抱きしめる。
「ぐすっ……ぐすっ……うぅぅ……」
「蓮華ちゃん……聞いてほしいの。何で涙がでるか分かる? 何で悲しくなるのかしら?」
自分の行動に反省しつつ、蓮華に優しく語りだす。
「ぐすっ……それは……お艶様が昌繁様に抱きつくから……」
「抱きついたからどうなの? 私に昌繁殿を取られると思った?」
「………ぐすっ……」
「それはね蓮華ちゃん。あなたは私にやきもちをやいているの。昌繁殿には自分だけを見ていてほしい、別の誰かとは仲良くしてほしくない、そう思ってるのよ。そうでしょう?」
「………」
不安げな面持ちの蓮華は無言で頷く。
「そう思うのはあなたが昌繁殿を好きだと思っているからこそよ。私だってそう。好きな殿方に振り向いて欲しい。でも残念ながら私にはその権利はないの。だからこそ蓮華ちゃんには私の分まで幸せになってほしい……自分の心に素直になりなさい」
「お艶様……」
「昌繁殿もです! この子のことを大事に思うのならもっとしっかりしなさい!」
「はっ、はい!」
矛先が自分に来るとは思っていなかった昌繁は、お艶に名前を呼ばれてピンと背筋を伸ばして返事をする。
「ならどうすべきか分かりますね」
「えっと……それはどういうことでしょうか」
「はあぁぁぁ……まったく乙女心の分からない方ですね。泣くほど貴方を思っている女の子をほっとくのですか? ほら昌繁殿、抱きしめてあげなさい」
「「えええぇぇぇ!」」
驚く昌繁と蓮華。
年頃の男女が一つ屋根の下で二人きりで暮らしておきながら今さらこれである。
オドオドする昌繁だがお艶に睨まれ、おずおずと蓮華の傍による。
「………」
沈黙が続く。戸惑いつつも期待を寄せる蓮華。
ニマニマと笑みを浮かべるお艶の方に催促され、昌繁は緊張を瞳に滲ませる。
昌繁とてここまでお膳立てされて引き下がるような男ではない。だが、いざ言葉にしようとすると喉の奥がつっかえたようで声が上手く出せない。
息を小さく吸うと恐るおそる口を開く。
「えっと……蓮華。だ、抱きしめてもいいかな」
「……うん。いいよ」
流石に気恥ずかしいのかもじもじしながら目線を逸らす。
美しい少女を前にして昌繁も緊張していた。
先ほどまで泣いていた顔は真っ赤に紅潮しまるで林檎のよう。気温が下がり、もうすぐ冬だというのにここだけ夏みたいに暑い。
この機を逃したら二人の距離は縮まらない。
だからこそ行動を起こさないといけない。
きちんと言葉にしないと安心できない。
今まで押さえつけていた気持ちが段々と大きくなり心を埋め尽くす。
勇気を振り絞り蓮華の横髪をそっと触れる。
長いまつ毛の端には先ほどの涙の雫がまだ残っている。
昌繁はそれを指先で優しく拭い、その手を俯く蓮華の顎に添える。
ピクンと一瞬蓮華の身体が強ばる。
愛おしい恋人の顔に引き寄せられる。
蓮華も恥ずかしさで視線を逸らすようなことはせず、昌繁に自分の身を任せている。
目蓋を閉じた蓮華に引き寄せられてお互いの顔が近づく。
唇が触れようとしたその瞬間。
「グルルルルルルル!」
沈黙を破ったのは蓮華の影である銀色の狼。
ハッとなって顔を離す。
狼の威嚇は昌繁ではなく部屋の入口に向けられている。
「どうしたの?」
蓮華と昌繁はともかく、お艶には狼の威嚇音は聞こえていない。
いい雰囲気の途中で距離を取る原因はすぐ判明することになった。
視線が集まる部屋の戸が開けられる。
現れた人物はがっしりとした壮年の男性。勇猛な武田軍において猛牛の異名を持ち、東美濃方面の攻略を担当する武田譜代家老衆・秋山虎繁その人であった。
「ここに居たか昌繁探したぞ」
「父上自ら? 何か大事な用件でも? まさか織田軍が反撃に出たのですか?」
「まあ待て昌繁、信長は近江で浅井朝倉と交戦中、京では将軍義昭公との確執が表面化し、領内でも本願寺門徒が蜂起しておる。そう簡単には動けまいよ」
「ならばどのようなご用件が?」
「御屋形様から書状が届いた。それには例の和尚の処遇について書かれておった」
「例の和尚、大圓寺の
「うむ。臨済宗の高僧であり京・妙心寺の管長職を五度務め、恵林寺でも一時期住職を務められた御方である。昌繁、お前にもう一度希菴和尚の所で行ってもらいたい」
「分かりました。ですが、あの和尚……首を縦に振りますかね?」
「いいか昌繁、先の希菴和尚の返答に御屋形様は大変怒りを覚え、希菴和尚の殺害と大圓寺の破壊を命じられておられる。その旨をしかと希菴和尚に伝えてこい、これは最後通告であると。我とてそのような命令は聞きたくないのだ。分かったな昌繁」
「はっ、かしこまりました」
畏まる昌繁とは反対に青い顔をするのはお艶の方だった。
お艶の夫であった遠山氏一族の菩提寺である大圓寺の希菴和尚とは何度か顔を合わしている。その和尚が返答次第では殺されかねないのだ。
「そんな虎繁殿どうにかならないのですか?」
「我とて名高い高僧を手に掛けたくない。だから昌繁を行かせるのだ。その意味分かるな?」
「……はい。昌繁殿よろしくお願い申します」
「心得ております」
「それにしても……美しい。昌繁には勿体ない娘よな」
「虎繁殿!」
お艶の声が部屋に響き渡る。
自分だけでは飽き足らず養子である昌繁の恋仲を邪魔し、あわよくば自分のものにしようとする虎繁に怒りを覚えていた。
「冗談だ。そう怖い顔をするな。どうせ我はこの娘に触れることはおろか近づくこともできん安心するがよい」
「それならばよろしいのですが、くれぐれも変な気は起こさないでくださいまし」
苦笑いをする虎繁だが、昌繁は初めて蓮華と養父が対面した時のことを想いだしていた。
それは岩村城が降伏開城した次の日。
蓮華を連れ虎繁の下に行ったときだった。
生い立ちとこれまでの扱いを説明する昌繁の言葉を聞いていないのがごとく、ただ蓮華を見つめる虎繁。
権謀術数に長け普段は表情を変えない養父が顔色を無くし、昌繁も初めて見るような困惑な表情を浮かべ蓮華を見つめる養父に、戸惑いを感じるのと同時に妙な胸騒ぎを覚えた。
「秋山の旦那、その娘はあかすかぁ(ダメだ)なぶろう(触ろう)とするとばっかな(とんでもない)化物に襲われるげな」
虎繁を諌めたのは遠山家の家臣だった。
「何を馬鹿なことを―――ぐがっ!」
家臣の言を無視して近づこうとした虎繁を組み伏せたのは普通の人には見えない獣。蓮華の守護獣である銀色狼だった。
「ダメ! その人を傷つけちゃダメ」
蓮華の静止で押さえるける手を緩める狼。
「だげんいわんこちゃなぁ」
「かんかなぁ(どうしようもない)旦那だて大丈夫だか?」
突然組み伏せられたことに動揺する虎繁。武人として恥ずかしいことなのだが見えない影には対抗できない。かろうじてその気配を感じ取れる程度であり、影がその気になれば命を取ることも容易なことに恐怖した。
昌繁以外は触れることのできない呪われた娘。
しかし、その美しさは目を見張るものがあり、異能の力を持つ者として危険人物だが殺すには惜しい娘。
それ故、今まで幽閉されていたのである。
お艶の方と昌繁の庇護のもと自由の身となった今でも人々は蓮華を恐れ拒絶していた。
だからこそこの家屋でひっそり暮らす蓮華をお艶の方は不憫に思ってた。
そんな出来事があったためお互いに警戒しあう関係ができてしまうのは仕方がないことだった。
「それはともかく昌繁、我にも椀をくれぬか。美味そうな鍋があるじゃねえかよお」
「は、はい。今すぐ用意します」
虎繁に頼まれ慌ててお椀を取りに行く昌繁。その横では頬を風船のようにぷくっと膨らませた蓮華がいた。
「まあまあ蓮華ちゃん機会はまたあるから。ね、機嫌直して」
「ん? その娘どうかしたのか?」
「虎繁殿には関係のない話です。そうだわ蓮華ちゃん、あなたも昌繁殿について行ったら?」
「えっ? でも私は……」
「でもも何もないの。二人で出掛ける好機じゃない。大圓寺に行ったついでに麓の村で遊んでらっしゃいな」
「こらこらこれは大事な任務なんだぞ」
「いいじゃないの。目的を果たせればそれでいいのでしょう。そもそも虎繁殿がこなければ面白いものが見れたのに残念だわぁ」
「何だそれは」
「いいの。こっちの話、蓮華ちゃんは後でおめかししましょうね」
今まで孤独に耐え一人寂しく生きてきた蓮華にとって、四人で食べる食事もたわいもない会話も新鮮だった。
そして、これから昌繁とお出かけするという事実に心を躍らせていた。
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