スパント登場
思考が加速している最中であったことが理由だろう。
無意識のままにスイーレがノックされた扉へと近づこうと腰を上げる。
だが、それは立っただけで終わってしまった。
給湯室からアウローラが素早く現れて、あっという間に扉を開けてしまったからだ。何かしら誇りを感じる動きではある。
「あ、わたしが呼ばれたと伺いまして――」
扉が開けられると同時に、女性の声が飛び込んできた。
続いて全身を覆う防水加工された黒いなめし皮のコート姿が現れる。その裾からは水滴が落ちていた。
アウローラがそれを迎えて一礼する。
「スパント先生。コートはこちらに。――それは?」
「ああ、地図です。必要だと伺いましたので」
女性――スパントは油紙に包まれ、筒状に丸められた地図を掲げながら朗らかに応じた。
その瞬間、アウローラの額に青筋が浮かぶ。そのまま扉の向こう消えると、
「クランナさんはお帰り下さい」「は?」「どうして先生のお手を煩わせているのです。全くあなたは人間以下」「いやいや、そんな冗談……」「冗談ではありません」「し、しかしですね――」
そんなやり取りが聞こえてくるが、いつもの事だ。
スイーレは嘆息しながら、スパントに声をかける。
「スパント、よく来てくれたわ。こんな時に悪かったわね」
「いえいえ」
「大事な地図は私のデスクの上に乗せて、コートは
アウローラの仕事を奪ってはいけないと思い直したスイーレが、腰掛けたままでスパントに指示を出した。
それに素直に従って、まず油紙に包まれた地図をデスクの上に置くスパント。
そして被っていたフードを降ろすと、先端は少し濡れていたが綺麗な金髪が現れた。襟足のあたりでキュッとリボンでまとめられている。
濃い青の瞳を含めた面差しには、どこか幼さが漂っていた。
その面差しの印象のままに、何やら大げさなしぐさでコートを脱ぐと、現れたのは若草色のドレス。
たっぷりとレースがあしらわれているが、その隙間にパン屑が残されいるあたり、スパントの為人が窺えるというものだ。
そして、スパントがコートをかけようとした時、初めて先客がいることに気付いたらしい。コートをかけながら振り返って部屋中を見遣る。
まったく落ち着きが無い。
そしてすぐに、ソファに腰掛けるヴォミットを発見する
「あ、ヴォ、ヴォミット先生じゃないですか!?」
「ふむ。君は誰だったかな?」
「スパントよ。前に『ラティオ』のパーティーで会ったはずなのよね。それにスパントはもう出版してるからあなたの先輩。少しは礼儀を弁えなさい」
流れるようにヴォミットがスイーレにやり込められ、同時にアウローラが戻ってきた。
「――クランナを使いに出しました。パイを湿らせずに持ってくるように、と」
「足りないわね」
こちらにもまた、すぐさまスイーレが応じる。
スパントに物を持たせる。先に立って案内しない。作家に対する敬意が微塵も感じられないクランナの振る舞いに、スイーレもしっかり怒っていたようだ。
そんな風に収まらない主人の怒りに、アウローラもしっかり頷いて答えた。
「そのあとに、サンドイッチでも手配させようかと」
「そうね。『ピナス=ヌシス』に行かせて」
「あ、あの、それって……」
土地勘のあるスパントが、さすがにお仕置きの真意を気付いた。だが、それだけにそれ以上口出しするのはマズいと思ったようだ。
気を取り直すように、地図を広げる準備を始める。
「あ、えっと……」
「アウローラ、適当な机ない? 何ならスツール並べてもいいわね」
これからヴォミットにコーヒー、それにお菓子まで供するのが決まっている。スパントにも同様だ。
これでは応接セットのローテーブルに地図を広げるわけにはいかないだろう。
アウローラは眼鏡をかけ直しながら、しばらく考え込み、
「――承りました」
と答える。
これでようやく、スパントも人心地つける環境が整えられそうだ。
~・~
……しかしそれもまた一瞬であった。
何しろ人は増えるし、提供される食事やお茶なども増える一方なのだから、片付くはずはないのである。
元々散らかっていた執務室であるので、結局は誰もが誰も「諦め」を受け入れなければならないことは確実。そんな状態でしっかりと落ち着ける精神の方がむしろ問題あり、と考えることも出来るだろう。
それでも、アウローラがイーゼルを引っ張り出してきたのは妙手だと断言出来るに違いない。それを窓際に立たせて、スパントが持ってきた地図を立てかけたのだから。
スペースの節約にもなるし、何より全員が無理な姿勢にならなくとも王国南方の地図を見ることが出来る。
これを何より喜んだのは、誰あろうヴォミットである。
クンシランを追うことで、自分の頭の中で何となく出来上がっていた南方の地図がしっかり具現化したのだから。
「ふむ。しかし君は……失礼スパント君と言ったね。よく南方の地図を持っていたね」
「わたし、辻馬車ギルドに勤めていまして」
感心したようなヴォミットの言葉に、スパントが頬を染めながら応じる。
「ほ、本当はギルドでは必要のない地図なんですけど。というか私は辻馬車の運営にも口を出すなって言われてるんですけど。わたし受付ですし」
「そ、そうか……」
王国北西地方、というかクーメイニの地図があれば済むところなのに、関係のない地図を集め、しかも運営に口を出そうとしている女性。やはり変人ではあるらしい。
そんな風にヴォミットはスパントを評価したのだが、スパントの変人ぶりはここから始まるのである。
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