ゾウナ河の畔にて

 ゾウナ河は春の陽光ひかりを受けて滔々と流れる。

 麗かな春の風が川面でワルツを踊っていた。


 ゾウナ河の両岸に面した街並み。それを彩る街路樹。それにガス灯の均一な配置が、こちらでもまたワルツを感じることが出来た。雪がすっかり消え去っていることも大きい。


 春になって気候が緩むのは、河口に近い、このクーメイニの街だけではない。

 ゾウナ河の源である、ミリア山脈でも雪解けの季節なのである。河の水も増加しており、なまじ冬よりも厄介であるかもしれない。


 ゾウナ河は大河であると同時に王国とヴィリディス神聖国を分かつ目印でもある。


 十数年前まで、この河もまた王国と神聖国の分割統治だった。東側が王国。西側が神聖国だ。


 それが実際に国境を接しているルースティグ伯領と神聖国の間でトラブルがあり、結果として伯国に接しているゾウナ河については、全てルースティグ伯の領地なったのである。


 実際には領地割譲を求めることが出来るほど、ルースティグ伯は神聖国に対して有利な状態でトラブルを収めることに成功していた。

 しかしルースティグ伯は口髭を横にしごきながら、


「いえいえ。ゾウナ河だけで構いませんよ」


 と、気前よく落としどころを設定したのである。


 神聖国首脳部は、これ幸いとばかりにルースティグ伯の申し出のまま、その条件で調印した。

 だが、この条件でも戦慄する者たちは当然ながらいる。


 河川沿いの運搬業をはじめとして、そういった業務に委託するありとあらゆる商売――つまり商人達が河川の使用料高騰を危惧したのだ。


 だがこれに対してもルースティグ伯は、


「まぁ、それほど無茶な価格には。当然、差はつけさせてもらうがね」


 と、応じたのである。

 そして、その言葉通りに使用料に関しては、


「高くはなったが、改めて文句を言うほど高くは無い」


 という絶妙な価格設定になっており、しかもその使用料が真っ当に河川の整備に使われていることが実感できるとなれば、黙って使った方が儲かる、という妥協に落ち着いたのである。


 それでも不満に感じるのなら、神聖国から王国へと移ってしまえばいいわけで、そのあたりは全くの自由であった。

 結果として神聖国側においても発展著しく、王国側のクーメイニに迫ろうというかのような状態である。


 元は名前の無い、荷物の集積場であっただけなのに、随分住居が増えており、クーメイニの下町のようになってしまった。


 今も春先特有の使用料の値上げに関しても、問題なく商人たちは受け入れている。

 増水に対処するためにお金がかかるのは当然のことで、値上げは王国側の商人達にも等しく課せられているからだ。


 これはルースティグ伯の手腕と言うべきだろう。

 一般にはルースティグ伯の「手口」などと呼ばれるあたり、伯の為人が窺えるわけだが、平和であることは間違いないだろう。


 そんな風に平穏を謳歌するクーメイニに、煉瓦造りの大きな建物があった。

 ゾウナ河には面していないが、街を貫く大通りに面するなかなかの立地。


 元々商業用に建設された建物であり、中には様々な業種の事務所があった。

 その一階部分に、大きなスペースを占有している事務所がある。


 推理小説専門レーベル「ラティオ」の事務所だ。

 そして今、レーベルのオーナーであるところのルースティグ伯令嬢、ラナスススイーレが鹿爪らしい表情で、じっくりと書類に目を通していた。


 いや、彼女が目を通しているのは“書類”ではない。

 製本されていない、何なら清書さえもされていない、つまるところ生原稿であった。


 そして彼女が腰かける巨大なデスクには、他にも生原稿が積み重なっている。今は日中であるので使われていないが、デスクに備え付けられているランプが、彼女の覚悟を象徴していた。


 何となれば、夜を徹してでも原稿に目を通す覚悟である、と。

 

 この事務所には当然ガスが通っているのだが、作家たちの筆致を確かめるにはやはり手元の灯りが欲しい、というわけである。


 彼女――スイーレはますます難しい顔をして、原稿を置いた。

 それにつれて彼女の大ぶりな耳飾りが揺れる。


 “三日月に星が流れるステラ・イン・ルナム”という古式ゆかしい詩編をモチーフにしたデザインだ。

 金と銀に輝く耳飾りは、しっかりと編み上げられた彼女のダークブラウンの髪のおかげで、さらに輝きを増しているように見える。


 それは彼女が顔の右側を、その髪で隠しているせいでもあるだろう。

 晒された左の瞳は菫色。それが原稿を睨みすぎたのか歪んでしまっている。


 いや、歪んでしまったのは原稿を睨み過ぎたことばかりが原因ではないだろう。

 どこか諦めた表情で、今まで貪りついていた原稿を眺めているのだから。


「――お嬢様」


 その時、ノックもせずにスイーレお付きの侍女、アウローラが姿を現した。

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