溢した雫の味
大きく堅牢な壁と門が、一際に広い敷地を囲んでいる。
その中には誰が見ても豪邸と形容するであろう建物が聳えていた。
一体何を成せばこれ程の高みに辿り着けるのか。
正しく「御屋敷」だった。
この日は朝から曇っており、時折吹く風は肌寒さを感じさせた。
時間の割に薄暗く、今目覚めた者は朝夕の判別を間違うかもしれない。
七ツ星は書斎で午前中を過ごすのが常だった。
大方の仕事は何処に居てもこなせる時代になった。
パソコンの液晶画面や数多くの紙の資料に眼筋が悲鳴を上げ、老眼で厚くなる一方の眼鏡を額の上へとずらし目頭を指で押さえる。
コンコンと扉を叩く音がする。
「どうぞ」
と声を出すと、付き人の田名瀬が挨拶もそこそこに入って来た。
田名瀬
「七ツ星さん、お時間すみません。あの、九段下という男が何やらゲートの所でセキュリティと揉めている様子です」
七ツ星は窓の外を見る。
遠くて良くは分からないが、確かにセキュリティと誰かが何やら押し問答をしている様に見えた。
七ツ星は深い溜め息をつくと
「分かった私が行く」
と答えて書斎を出た。
ツカツカと靴の踵がコンクリートを打つ音がいくつか重なっている。
勿論その内の一つの七ツ星は面倒事はうんざりだとその体躯に見事表現しながら歩く。
使用人の一人が七ツ星にコートを掛けようと後を追った。
もう数メートルだろうか、ようやく門前の来客と目が合った。
来客も七ツ星を確認し、駆け寄ろうとするがセキュリティに行く手を阻まれた。
蓮太郎
「あっ七ツ星さんっ、その、突然すみませんっ」
「あの、そうっこれ、このぬいぐるみ!」
「白くまなんですけど、ハクのやつこれが無いと上手く眠れないんです!」
「なんか、その、届けなきゃって!」
「夜中に起きた時に不安にならない様にって!連絡も無くすみませんっ!これだけ渡したくてっ」
蓮太郎の大きな声が辺りに響く。
使用人が数人、何事かと出て来る。
蓮太郎
「それと、そうっそうだ!ハクのやつは味の好みが変わってるんです!」
「ですから、その、もし食べ残したりとか我儘言ったりしても怒らないであげて下さい!」
「後っ、何か上手に出来たらご褒美にアイスをあげて下さい!あいつ凄い喜ぶんで!」
「それと、初めての事は不安で目が凄い泳ぐんですよ!」
「あいつは、ほらっ何でもかんでも明るくやり過ごそうとするんですけど、ただの強がりなんです!」
「本当は不安で不安で怖くて堪らないんです!」
「だからその時は、どうか、どうか気付いてあげてやって下さい」
「一緒にやれば怖く無いよって、一緒だから大丈夫だよって言ってあげて下さい」
「これだけです、本当にこれだけなんです…」
「本当にすみませんっ、こんな事で…」
「でもあいつには大事な事なんです!」
大の大人が顔を赤くし鼻水を啜りながら訴えたのだ、コートの一つでも羽織らせて帰そう。
そう思い、七ツ星は蓮太郎に歩み寄ろうと歩を進めた。
「れんたろっ!れんたろっ!」
蓮太郎が出した声の何倍も大きい声が突如として響いた。
誰もが声の方へと顔を向ける。
玄関からハクが飛び出して来た。
状況を飲み込めず、訳も分かっていない使用人の一人が、反射的にだったがハクの行く手を阻む。
ハク
「れんたろっ!れんたろっ!あのねっはくねっ!」
「はくねっおばかさんだから、またしろくまんそふぁにわすれちゃったの!」
「それとねっ!ごはんっ、おいしいからどーぞってしてもねっ、だれもたべてくれないのっ、なっ、なんでかなー」
「それとねっ!はくねっはくねっ」
「おふろでねっ、がんばってひゃくかぞえようとおもったんだけどねっ」
「はくねっじゅうのつぎがよくわかんなくてねっ」
「れんたろといっしょじゃないからねっ」
「わかんなくなっちゃったの!」
「それとねっそれとねっ」
「はくねっ」
「はくね、れんたろいないとさみしいよ!」
「れんたろといっしょがいいよ!」
蓮太郎は「うんうん」と繰り返し頷く。
ハクは涙でぐしゃぐしゃになりながら何度も蓮太郎の名を呼ぶ。
蓮太郎も何度もハクの名を呼ぶ。
蓮太郎
「ハク!俺なぁ、蓮太郎はなぁ、嘘を付いた!」
「ごめん!」
「蓮太郎はなぁ、ハクの事が大好きだよ!」
「邪魔だなんて思った事なんか無い!」
「ハクの事がとってもとっても大事だ!」
「だからなぁ、蓮太郎はハクの事が大好きで大事だからな、離れててもずっとハクの事を思ってる」
「ハク頑張れーって、ずっと思ってる」
「だからなぁ、離れてても蓮太郎とハクはずっとずっとずーっと家族だ」
抑え込んでいた蓮太郎の気持ちと感情が、止め処無く瞳から溢れていた。
その雫の意味を分からない者はもうこの場には居なかった。
使用人の手を離れ、ハクが蓮太郎の元へと駆け寄る。
ハクの十六歳とは思えない程に小さい体を蓮太郎はめいいっぱい抱き締めた。
お互いがお互いの名を呼ぶが、震える音に何度も聞き返したくなる。
「れんたろ」
「なに?」
「ハク」
「なーに?」
二人の元へと七ツ星が来る。
この二人の間に、今割って入るのは無粋な事と承知の上でそれでも自身の立場上言わなければいけない事が有った。
七ツ星
「九段下さん、本当にすみませんでした」
「私はてっきり貴方が早速追加の謝礼を要求しに来たのだと思ってしまいました。本当に申し訳ない」
「お二人の絆、しかとこの胸に届きました」
「ただお約束通りに当面は私共にハク君を預けて頂きたい」
「元より父を看取った後はハク君の意志に委ねるつもりでした」
「ですのでその時までご辛抱願いたい」
「それにここに居ましたら、今の技術ならハク君の身体に良い影響を与える方法が見付かるやも知れぬと考えていた所です」
「ゆくゆくはハク君に戸籍を持たせてあげるつもりです。かなりグレーな手段にはなると思いますが」
「それも加味して安心して預けて頂きたい」
「ですが周りの目も有るのが事実。接触は避けて欲しいのが本音です。出来れば今この状況すら誰にも勘ぐられたく無い」
七ツ星は深く深く頭を下げる。
この場の誰しもが、目の前の三者の気持ちを慮っては胸を強く締め付けられた。
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