第31話 魔女から逃げる方法
まりあはあまりのことにめまいを覚え、その場にしゃがみこんだ。
「な、なんで……?」
「俺が聞きてえよ。普通、悪魔が召喚されてもここまでの災害にはならねえんだが。お前さん、もしかして教会の生まれかなにかかい?」
「怪しい宗教の家だけど」
家の事情を説明すると、カサンドラは納得したようにうなずいた。
「なるほど、それだな。人ってのは、元がどうあれ扱われたように変わるもんだから」
「わかるように説明してよ」
まりあは混乱でいっぱいの頭で、なんとかカサンドラの話について行こうと必死だ。
なんなんだ一体。
どうして私がそんなことになるんだ。私は街を壊したくなんかないし、人殺しをしたくなんかない。
「お前は神の子、神の御使い、神の分身として扱われ、そのように生きた。その人生は、お前の魂を形作り、根付いている。人の身だが神の側面を持っているお前は、生贄としての価値が高いんだ。だから、悪魔が顕現しちまった」
「う、占いが外れてるってことは?」
「ない。俺の占いは外れない。お前もさっき見ただろう? この世界の人間が知るはずのない地名でも、俺は当てることができる。俺の占いは絶対だ」
吐きそうだ。
「そんなの嫌だよ」
「慌てるな。今のはあくまでも予言。まだ起きていない未来だ。運命ってのは不思議なもので、絶対に変えられない大きな流れに見えることもあるが、些細なことで大きく変わることもある。お前さんはまだ手の打ちようがいくらでもあるだろう? 要するに、誘拐犯に捕まらなきゃいいんだ」
「そっか、そうだよね」
なにも知らないところを不意打ちで襲われて誘拐される、というのが予言の内容だけど、まりあはもう、誰かに襲われるということを知っている。
それなら対策くらいは取れるだろう。
「今日はさっさと家に帰れ。バーバラたちには俺から言っといてやるよ」
まりあは礼を言うと、大慌てで元来た道を駆け戻った。
逃げる。逃げる。どこに潜んでいるかもわからない脅威から。
早く、安全なところへ逃げ込まなければ。
青い顔で走って行くまりあを、通行人が不思議そうに見た。
できるだけ人の多い道を選んで行く。誘拐犯は人目のない時を選んでまりあの前に来るはずだ。
あと少しで帰りつける。あの角を曲がったらもう家だ。
そう思った時まりあは凍り付いた。
いる。
背が高くて黒い服の女。なにげない様子で、鼻歌でも歌いだしそうな陽気さで、通りを散歩している。
家に続く道を行くには、あの女のすぐそばを通らなければならない。
人違いかもしれない。背が高くて服が黒い以外の特徴は聞いていないから。でも、あれが誘拐犯の魔女だったのなら取り返しがつかない。
女の目がこっちを向いた気がした。
体がこわばる。
目をつけられた? そんなはずはない。あの人にとって自分は通りすがりの他人のはずだ。
いや、まさかとは思うが、あの女はまりあの素性を調べて、まりあを狙ってやってきたのかもしれない。
この世界へ来た時、最初の事件で被告人として法廷に立たされた時、まりあは自分の素性を話した。
生まれのこと、育ちのこと、蛇と話したこと、異なる世界から来たこと。
裁判だって言うくらいだし、議事録くらいどこかにあるだろう。
カサンドラの言う通り、まりあのような育ちの人間は生贄に適しているというのなら、通り魔的な誘拐ではなく、まりあをつけ狙ってチャンスをうかがっているのかも。
まりあは踵を返して、逆方向へ逃げ出した。
人混みに紛れてきょろきょろとあたりを見る。どこから魔女に狙われているかわからない。
そこからはもう、めちゃくちゃに走った。
まだ道も覚えていない、来たばかりの街だ。どこへ行けばいいのかなんてわかるはずもない。体力に任せて行く当てもなく走る。
走り続けて、まりあは絶望と共に確信した。
魔女はまりあを狙っている。
どこへ逃げても、必ず街角に黒い服の女がいるのだ。
賑わう市場の片隅に。
広場にある噴水の傍らに。
十字路に停まった馬車の窓に。
必ず黒い服の女がいて、じっとまりあのことを見つめている。
なんで。こんなに走ってるのに。どうして先回りされるの。
鉛のように重くなった足を引きずっても、立ち止まることはできない。追いつかれてしまえば終わりだ。
そうだ、教会に逃げよう。
どこまで効果があるかは知らないけど、邪悪なものはああいう場所が苦手なんじゃないだろうか。
まりあは大通りをまっすぐ行ったところにある、古い教会へ向かった。
誰でも入っていいことになっている、住民たちの憩いの場だとバーバラが言っていた。しかし、今日に限って誰もいない。
大きな教会だ。積み上げられたレンガは年月の重みでひび割れているが、わびしい感じはしない。人々に愛された年月がうかがえる。大きな塔の内側には螺旋階段がついていて、上の階層に上がれるようになっている。
まりあは、階段を登って上の階層に隠れることにした。
物陰に隠れ、出入り口をじっと見つめて息をひそめる。
どうか誰も来ませんように。
その望みを打ち砕くように、教会のドアを開く音が聞こえた。
まりあは音を響かせないように細心の注意を払いながら、一歩ずつ上へ上へと逃げていく。
魔女に見つからないところまで逃げなければ。
足音が近づいてくる。まるでまりあの居場所を知っているかのように、まっすぐにこちらへ向かってくる。
なんで。なんでなんで。
恐怖で呼吸が乱れるのを感じながら必死で息をひそめ、音をたてないように上へ逃げる。
足音は、階段を登り始めた。
しまったとまりあは歯噛みした。最上階まで追い詰められてしまえば逃げ場はない。
捕まるわけにはいかない。
自分が捕まって生贄にされれば、カサンドラの予言が本当になってしまう。
恐ろしい悪魔がやってきて、この街は破壊され、リリスは縊り殺されて、バーバラは裁判にかけられて死ぬ。
足音が近づいてくる。
あんな未来、本当にしてはいけない。
絶対だめだ。
足音が近づいてくる。
だめだめだめ!
ふ、と目の前の景色が開けた。
最上階は展望台になっている。広いベランダが、腰くらいの高さの鉄の柵で覆われている。
空が近い。この街の景色が一望できる。
足音が近づいてくる。
まりあはひらめいた。
私さえいなければいいんだ。
足音が近づいてくる。
私さえいなければあの惨劇は起こらないんだ。
まりあは鉄の柵に手をかけ、乗り越えた。
足音が近づいてくる。
柵の向こうの足場は狭く、少し動くだけではるか下の地面まで真っ逆さまだろう。
足音が近づいてくる。
さすがの魔女も、あの世までは追って来られないはずだ。
ふっと、少しだけ体の重心をずらす。
落下が始まるのを感じる。体が外へ倒れ、胃の腑がひゅっと浮き上がるような心地がする。
ぎゅっと目を閉じて覚悟を決める。
これで大丈夫。みんな助かる。
「なにをしてるんだ!」
鋭い怒声が聞こえた。一瞬誰の声かわからなかった。彼は普段、そんな声を出さないから。
落ちていくはずの体が、がくんと動きを止める。
恐る恐る目を開けると、荊の蔓に固定されたリリスの両手が、窮屈そうにまりあの服を掴んでいた。
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