断章 蛇が見せる夢
第17話 蛇のりんご
かつて人は楽園に住んでいました。
そこはあらゆる苦しみが存在せず、生きる上で必要なもの全てがある理想郷です。
神が作った最初の人間であるアダムとイブは、楽園で何不自由なく暮らしていました。
楽園にあったルールは一つだけ。
木に実っているリンゴを食べてはいけない。
二人は言いつけを守りました。
父なる神の言うことは絶対です。
しかしある日、蛇が現れてイブに囁きます。
「食べてしまえばいい。これを食べると知恵が得られるのだよ。賢くなるのはいいことだ」
そそのかされたイブはリンゴを口にしてしまいます。
イブが掟を破ったと知ったアダムは、妻を一人にしないために、自分もリンゴを食べました。
こうして二人は、知性を得たのと引き換えに楽園から追放されることとなるのです。
ゆえに、全ての人間は生まれながらに罪を背負っています。
神よ、我らの罪を赦したまえ。
まりあと蛇は、少し離れたところから父が娘に絵本の読み聞かせをしているところを見ていた。
これは記憶だ。心の奥にあったものが、ふっと浮き上がってきたのを感じる。
夜眠る前に父さんが絵本の読み聞かせをしてくれた時の記憶。
父さんは、幼いまりあを相手に繰り返し宗教の話をした。他にも、神様に関する絵本を読み聞かせされたような気がする。
たぶん、彼なりの親心。神の子として生きる我が子が将来困らないように、神の教えや宗教観をきちんと教えておこうと思ったのだろう。
けれど、まりあにしてみれば、それはただの洗脳教育だ。
他の本を読んで欲しいとせがむと、「あれは人を快楽で堕落させるための本だ。サタンの手先が書いた本だ」と、怖い顔でたしなめられる。本屋にも図書館にも、連れて行ってもらったことはない。
「この話の解釈は様々だ。アダムとイブの物語はあまりにも有名で、あまりにも多くの人が知っている」
まりあの肩に巻き付いている蛇が言った。
「何度も引き合いに出され、そのたびに様々な角度から「ああじゃないか」「こうじゃないか」「自分はこう見た」と議論が飛び交う。実際の所どうだったのかなんて、もはや置き去りだ」
幼いまりあが父に聞いた。
「この蛇はなんでイブにリンゴをくれたの?」
父が答える。
「蛇は悪い奴なんだ。アダムとイブを、神様と喧嘩させたいんだよ。蛇はサタンの化身なんだ」
「サタン?」
「一番悪い悪魔だよ」
尻尾をふるって、蛇が記憶の幻影をかき消した。
「人聞きが悪いなあ」
その声には、かすかな怒りが含まれていた。
幻が消えると、まりあたちはいつものように丘の上にいた。
今日は少し、天気が悪い。
分厚い雲が空を覆い、雨の気配が濃い。
「おめでとう。初仕事は無事に成功だ。人助けができた気分はどう?」
「すごく嬉しい」
ナタリーの、少し明るくなった顔を見た時、やってよかったと心の底から思った。
「さてさて。これで「誰かを助けてみたい」という君の心残りはひとまず達成できたわけだが……。手ごたえはあったかな? これからも、リリスの元には魔女の弁護依頼が舞い込むだろう。このまま続けていけそう? それとも、一回できたらもう満足?」
蛇は試すような目でまりあをじっと見ている。
「他にも助けられる人がいるなら、助けたい」
「いい返事だ。ありがとう」
ざーっと風が吹く。雲が風に押しやられて、太陽が顔を出す。
陽光に一瞬怯んで目を閉じると、そこは丘のリンゴの木の下ではなく、まりあの部屋のベッドの上だった。
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