第9話 薬屋ナタリーの受難
生きるということは、出口の見えない樹海をさまようことに似ている。
道しるべも標識もなく、だるい足を引きずって、この森を抜け出したいという希望すらもいつしか消える。
街で薬屋を営むナタリーは、気が重くてため息をついた。
今日は来客がある。できれば人と関わりあいになりたくないのに。
来店予定の客は、惚れ薬が欲しいらしい。数日前に依頼され、すでに調合してある。あとは渡して、代金をもらうだけ。
森の奥深くで誰とも関わらずに、草木に水をやって、木の実を糧として、隠者のように生きていけたらいいのに。絵物語や昔話には、そんなふうにして生きている人も登場する。冒険譚の主人公に知恵を授ける賢者とか。森の奥深くに住んでいるという魔女とか。
そういうものになってしまいたいけど、普通に考えて無理だろう。自分は普通の人間だから、たった一人でサバイバルするほどの能力はない。野犬にでも襲われたらそれだけで一巻の終わりだ。
いっそ、本当の魔女になれたらそっちの方が楽かもしれない。魔法でエイッと野犬を追い払い、きれいな湧き水の出る泉を見つけ、安住の地を作るのだ。
なんて夢想を、今まで何度もした。毎回、空想だけで終わるのだけど。
ナタリーは、昔から魔女と陰口を叩かれながら生きてきた。
人との交流を避け、草木にばかり話しかける愛想のない陰気な女。それが自分だ。
ミサにすら顔を出さないナタリーの様子を見に、神父が尋ねてくることもある。
「恐れることはありません。一歩踏み出してごらんなさい。世界はあなたを受け入れますよ」
その手の話は嫌いだ。こういった話をする者は、どうしてこっちが今まで一度も、一歩も踏み出したことがない前提で話すのだろう。
人は苦手だ。
無理解。
断絶。
それが、ナタリーが他人というものに抱いている印象だ。
人は、ナタリーに見えている景色を理解しようとはしない。
その点、植物に囲まれているのは楽だし、すがすがしい気分になる。
彼らは自分になにも求めない。ただそばに寄り添ってくれる。
コンコン、とドアが叩かれた。約束の時間ちょうどだ。依頼者が薬を受け取りに来たのだろう。
早いとこ渡してさっさと帰ってもらおう。
「こんにちは」
入って来た人間に、ナタリーはつっけんどんに言う。
「手帳出して」
薬の中には、飲み合わせが悪いと危険なものもある。客には全員手帳を渡して、どの薬を処方したか記録できるよう協力してもらっている。
客から手帳を受け取って、中身を確認する。この手順はしっかりやらなければいけない。うっかり別の者に薬を渡してしまうと大変なことになる。
「それで、使用上の注意なんだけど……」
「ありがとう!」
客は即座に身を翻して出て行ってしまった。
言わなければいけない注意点がいろいろあったのに。
満腹時は効きにくいから空腹のときに服用した方がいいとか。体質によっては異常、違和感を覚える場合もあるから、その場合は服用をやめた方がいいとか。他の薬を服用中の人や妊娠中の人には飲ませてはいけないとか。
ほっとくか? あの客が困ろうが、自分には関係ない。
いや、しかし。
その薬でなにかトラブルが起きた時、人々は言うだろう。「あの魔女の薬のせいで大変なことになった。前から怪しいと思ってたんだ。裁判にかけた方がいい」と。
魔女裁判にかけられた者の末路は悲惨なものだと聞く。
疑われてしまったら、自分が魔女ではないと証明するのはとても難しい。
裁判は結論ありきで進み、「自分が魔女だ」と自白するまで拷問が続く。
縄で縛られて川に投げ込まれたり。
靴の中に溶かした鉄を流し込まれたり。
この街の裁判官は、串刺しの拷問をよく使うと聞いている。
自分は潔白だと言い続け、終わりのない拷問の末に死ぬ被告人も珍しくないそうだ。
だったら、サクッと殺してもらった方が、苦痛がなくていいかもしれない。
どうせわかってもらえないのだから。
「はぁ……」
ため息をついて、ナタリーは客を追いかけた。
店は、裏路地の少し奥まったところにある。大通りに出てしまう前に見つけられればいいけど。
客の名前はなんだったか。ええと、そうだ。リッキーだ。
「リッキーさん。説明が途中なんだ。最後まで聞いてくれ」
名を呼びながら探していると、人が一人、道端でうずくまっているのが見えた。
「リッキーさん?」
近づいてみる。呼吸が荒い。体調でも悪いのか?
その人影は、ナタリーの気配に気づくと立ち上がってよろよろと近づいて来た。
「げ、やめろ離せ!」
伸びてくる手がナタリーを捕まえ、次の瞬間、強引にキスをされた。
突然のことに固まっていると、小さくひきつった悲鳴が聞こえる。
「リッキー? なにしてるの?」
女の声だ。
「ああ、違うんだカトリーナ。これは……」
めんどくさいことになった。ナタリーはため息をつく。
「どうしてあなたが、こんな陰気な女にキスしてるの?」
「違うんだ。話を……」
「わかったわ! 悪い魔法で操られているのね! 惚れ薬でも飲まされたんでしょう!? そうなんでしょう!? そうでもないと、リッキーが婚約者の私を裏切るはずないもの!」
もうだめだな。
ナタリーは顔をしかめ、ため息とともに自分の人生を諦めた。
女のヒステリックな叫び声につられて、大通りから野次馬がやって来る。
「この魔女が! 私の婚約者に呪いをかけたの!」
いずれこんな日が来るような気はしていた。
人は、ナタリーに見えている景色を理解しようとはしない。
深い断絶によって、自分は魔女の烙印を押され、処刑される。
逃れる術はない。
早く苦しみが終わりますように。
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