聖堂に巣食う火の悪魔

第2話 聖母の見守る光の中で

 ここの所、謎多き事件が続いている。

 聖堂の司祭長アルフレッドは頭を悩ませていた。


 自分の預かる聖堂に、悪魔が出るのだ。


 その正体もわからなければ、なぜ出るのかもわからない。

 忌まわしき悪魔が出るのは、決まって昼のお祈りの時間。

 この聖堂は古くから皆に親しまれている街のシンボルで、大きなステンドグラスが美しいことが評判だ。

 色鮮やかなガラスで描かれているのは、天使が聖母マリアのもとへ受胎を告げに来た時の絵。

 昼のお祈りの時間には、ちょうど太陽がステンドグラスの向こう側へ登り、聖堂の中は色ガラスを通した美しく暖かい光で満ちる。


 そこで、聖母に見守られながら祈る。


 その時間はとても得難いもので、参拝にやって来る街の人々にとっても、この聖堂は信仰心のよりどころと言えよう。


 そんな大切な場所に、悪魔が出る。

 許されざることだ。


 なんとか、巣食ってしまった悪魔を退治しなければならないと心に決めたアルフレッドは、悪魔と対峙することを決めた。

 昼の祈りの時間に、他の者の立ち入りを禁じ、自分一人で祝詞を唱える。

 出入り口の外には、アルフレッドの身を案じている信徒たちの気配がある。

 この悪魔は非常に狡猾で、こちらの信仰心を試し、揺らがせようとしてくる。


 襲われた者や目撃者が言うには。

 まず、服に火が着く。


 祈りの時間は顔がかゆくても腹が痛くても、祈るのをやめてはいけない。ゆえに、火が着いても祈るのをやめてはいけない。

 悪魔は、我々に祈りをやめさせようとしてちょっかいをかけてくるのだ。心の平静を乱して、思い通りになってはならない。

 しかし、一度着火した火は当然のことながら、燃え広がっていく。

 だが、ここでも平常心を保たなければならない。


 ここでわが身かわいさに祈りをやめて悪魔を祓おうと反撃すれば、一気に炎が強くなってしまう。


 祈っている間は聖母が加護を与えて下さるが、祈りをやめればそれが消えるからだと思われる。

 この事件のせいで、大勢の信徒が火傷を負った。

 なんとかしなければならない。

 使命感を抱いてアルフレッドは、聖堂の真ん中、降り注ぐステンドグラスの光の中で祝詞を唱える。


 すぐに、悪魔がやって来た。


 煙の匂いがする。衣服に火をつけられたのだ。


「天におわします我らが父よ。御名が貴ばれんことを。御代が来たらんことを。天において思し召すままなるが如く、地においてもあらせたまえ。我らが日々の御養いを今日も与えたまえ。我らの罪をお赦しください。我らも人を赦します。私たちを誘惑に陥らせず、凶悪より逃したまえ。アーメン」


 何度でも、この祝詞を繰り返す。

 普段であれば決められた時間になるまで唱え続けるだけだが、今日は悪魔との闘いだ。

 悪魔が姿を見せ、この聖堂の信徒の信仰は揺るがないと諦めて去るまで、これを続ける。

 そうすれば、平穏が戻って来るはず。

 アルフレッドは固くそう信じている。

 燃え広がった火が肌を焼き始めた。じりじりとした痛みに悲鳴をあげそうになるが、耐える。祝詞を途切れさせてはいけない。

 室内に煙が充満し始めた。喉がイガイガする。熱い。苦しい。

 だが、やめるわけにはいかない。

 神よ、聖母よ、我らをお守りください、と心の中で念じながら、祝詞を唱え続ける。

 しかし、炎は大きくなるばかりで、そのあとは何も起こらない。

 悪魔は諦めたのか? それとも、笑いながら自分が焼ける様を見ているのか?


 悪魔と戦うと決めた時に、いいや、神に仕えると決めた時に、この命は信仰に捧げると決めている。死ぬことは怖くない。殉教して死んだのであれば、天の国への門は開かれるだろう。


 肉の焼ける匂いがし始めた。

 痛い。熱い。痛い。


 そんな時だった。

 その声が聞こえたのは。


「あれ……? ここはどこ? さっきの蛇は……。わっ!? 燃えてる!? ちょっと! 大丈夫!?」


 一心に祈るために閉じていた目を開けると、目の前に見知らぬ少女がいる。


 年のころは十五、六歳くらいだろうか。ショートカットの真っ赤な髪が印象的だ。大きな目と小さな口の幼げな顔立ちをしているが、その表情はどこか尖っていて、こちらに向けている視線も大人びているように見える。

 まとっている紺色の衣は見たことがない意匠のもの。異民族かもしれない。膝までしかないスカートは縦じまのようにたくさんのひだがついていて、上衣はぐっと大きい襟がついている。

 なんだろう、この少女は。

 まさか、この子が悪魔の正体だとでも言うのか。

 そうかもしれない。悪魔は人をだますために姿を変えると聞く。今に恐ろしい悪鬼の姿を現すに違いない。

 アルフレッドは、少女を無視して祈りを続けることに決めた。

「天におわします我らが父よ。御名が貴ばれんことを。御代が来たらんことを。天において思し召すままなるが如く、地においてもあらせたまえ。我らが日々の御養いを今日も与えたまえ。我らの罪をお赦しください。我らも人を赦します。私たちを誘惑に陥らせず、凶悪より逃したまえ。アーメン」

「ちょっと! 今あなた燃えてるんだって! 消さないと! 水! 水道はどこ!?」

「天におわします我らが父よ」

「今それやめて! それどころじゃないんだってば!」

「御名が貴ばれんことを」

「もう!」

 少女はあたりを見回して、出入り口の方へ向かっていった。

 まさか信徒たちに手を出すつもりか、と一瞬ヒヤリとしたが、そのドアには鍵がかかっている。

 少女はドアを叩き始めた。


「誰か来て! 水を! この人死んじゃう!」


 ドアの向こうで騒めきが起きた。


「悪魔の声だ」

「祈りをやめさせるための誘惑だ」

「絶対開けるなよ」


 少女は歯噛みしながらアルフレッドのもとへ戻って来た。

 そして、上衣を脱いで炎を叩き始める。

 火の勢いが少しだけ弱くなり、アルフレッドはおや? と思った。


 この子は本当に自分を助けようとしているのかもしれない。


 いいや、そうやって信用させて祈りをやめさせる作戦に違いない。

 上衣で叩かれただけでは、炎は消えなかった。

 アルフレッドは祈り続ける。

「天におわします我らが父よ。御名が貴ばれんことを。御代が来たらんことを。天において思し召すままなるが如く、地においてもあらせたまえ。我らが日々の御養いを今日も与えたまえ。我らの罪をお赦しください。我らも人を赦します。私たちを誘惑に陥らせず、凶悪より逃したまえ。アーメン」

「また宗教! やってらんない!」

 怒りの声をあげながら、少女はまたあたりを見回す。

 そして、一か所に目を止めるとそちらへ向かって歩き出した。その先には、蝋燭の刺さった燭台がある。

 あれでさらに火を移して自分を焼き殺すつもりなんだ。アルフレッドは背筋が寒くなった。


 しかし少女は、蝋燭を吹き消して燭台から引き抜き、こちらと燭台を交互に見て、固い面持ちでごくりと生唾を飲んだ。


 なにをする気だ?

 怪訝に思って見ていると、少女は静かに、強い声で呟いた。


「やらなきゃ。人を助けるって決めたんだから」


 そして、蝋燭を刺して立てておくための棘で、己の手のひらをザクザクと刺し始め、苦悶に顔をゆがめた。

「いっ……!」

 血に染まった手のひらを見て戸惑うアルフレッドのもとへ、少女は戻って来る。


 そして、血まみれの手を燃える衣服に押し当てた。


「服、汚れるけど我慢して。水がこれしかないの」


 アルフレッドは己を恥じた。

 自分は、こんなにも献身的に見ず知らずの人間の命を救おうとする少女を疑ったのだ。

 この少女は聖母が遣わした御使いに違いない。


 もう祈らずとも大丈夫だ。


「あ、あなたは……」


 その時、バンッと出入り口の扉が開いた。

 祈りの声が止んだのを感じて、信徒たちが入ってきたのだ。

 そして、少女を見て驚きの声をあげる。


「誰だお前は!」


 まずい、と思った。


 血にまみれた彼女は、信徒たちの目には祈りにあてられて姿を現した悪魔のように見えてしまうだろう。


「ま、まて……」

 信徒たちを制止しようとしたとき、ぐらりと体が揺れた。

 火傷と煙で、もう体が限界らしい。


「安心してください、司祭長。あの女は我々が責任もって魔女裁判へ連れていきますからね!」

「ちが、う……。彼女、は……」


 薄れゆく視界の中で、信徒たちが寄ってたかって少女を取り押さえているのが見える。


 違うのだ。彼女は自分を救った恩人なのだ。


 それなのに、煙に焼かれた喉ではうまく声が出せない。

「彼女は、ち、がう……」

 この戦いでアルフレッドは、悪魔の正体を見極められなかった。


 なぜ、祈りの時間に火が起こるのか。


 なぜ、祈りをやめると火が強くなるのか。


 少なくとも、彼女の仕業ではない。

 誰かがそれに気づいてくれますように。

 事ここに及んでも祈ることしかできない自分を情けなく思いながら、アルフレッドは意識を失った。

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