第8話
火曜日の昼休み、わたしはロビーのカウンター席で、ウェンシスがブレンドしてくれた新作のお茶を飲んでほっと一息ついていた。
寒さも身に沁みる12月に入り、窓から降り注ぐ太陽の光が一段と暖かく感じられた。
「今日は眼鏡かけてるんだ」
聞き慣れた声に振り向くと、リルさんがにこやかな表情で立っていた。
ワッフル素材の苔色のTシャツに、シナモン色のズボンとシンプルな格好にも関わらず、穏和でやわらかいイメージがあった。
「あ、こんにちは。えっと……普段はコンタクトなんですけど、今日は何だか調子悪くて……」
裸眼視力が両目で0.2程度しかないわたしは、職場ではコンタクトレンズを装着している。
が、今朝に限って目がゴロゴロして上手く入らなかったため、フレームがブラウンベージュ色の眼鏡をかけていた。
「コンタクトレンズか。ケアが大変そうだね」
「帰省の時に1年分のコンタクト用品を買ってるから大丈夫です。まあ、その分荷物が増えますけど……」
ウキウク国への荷物持ち込み量は、段ボール1箱に入る分のみとされている。
箱の大きさは特に指定がないので、毎年、特大段ボールに食料、衣類、日用品など、この国では売っていない物や、買うと高い物を詰め込み、荷台に乗せて帰って来る。
ナマモノ、生き物、電化製品、危険物以外ならたいていのものは持ち込める。
「眼鏡姿も似合うよ」
「あ、ありがとうございます。化粧するのが面倒な時は眼鏡が多いんですよ…………」
そう言いながら心の中では、
(この人の前で、ほぼすっぴんなんて無理に決まってるだろ~!!)
と叫んでいた。
今まで、“化粧はとりあえず眉毛が消えなければOK”くらいだったのが、リルさんと“昼休みの友”になってからは毎日ファンデーションとコンシーラーで肌の粗を目立たなくし、目元もアイシャドウとアイラインで抜かりなく整え目力アップに努め、まとまりの悪い髪の毛にいたっては、ねじりを入れた1つ結びをするなどして野暮ったさを回避していた。
それは眼鏡をかける日も同じで、彼といつ白センで会っても見苦しい面を晒さぬようにという意識の表れだった。
(それにしても、リルさんが傍にいるとイライラが消えてくな……)
元夫にわいた「頭かち割りてえ……」というどす黒い感情さえも、彼に会うと数秒で浄化された。
例えるなら、フィット感のあるビーズクッションに包み込まれる安心感とでもいうのか、肩の力が自然と抜けていた。
「先週はすみませんでした」
「いいよ、気にしないで。ゆっくり話できた?」
「ゆっくり……う~ん、まあ、はい。会うと喧嘩腰になってしまいます……」
わたしは苦笑した。
「あ、リルさんは元夫のこと知ってます?名前はモノスキニって言うんですけど」
「名前は知らないけど、橙にいた頃ちらっと見かけた気はする……なんで?」
「その……リルさんのこと、あまりよく思ってなさそうで……」
「ああ…………きっと、恋人をとられたと思ってるからだね」
「えっ?」
「僕は全然その気なかったのに相手がしつこくて……何日か経ったらもういなくなったけど……って彼に言っても信じてもらえないだろうね」
伏し目がちに話す彼にわたしは、
(ハユキ先生の予想どおりじゃないか……!!ってかどんだけ引き寄せオーラ強いんだ……?)
と少し恐怖に似た感情を覚えた。
老若男女に人気の彼にも、恨みや妬みを持つ者も一定数いるであろうことは想像できた。
とはいえ、もう何十年も昔のことだ。
本当の理由も聞かず、ずっと根に持つなんて元夫の思い込みも激しいところだった。
「そうですね……一度『こうだ!!』って思ったら曲げない頑固者だから。自分の目で見たことしか信じないタイプなんです」
「噂に振り回されるよりはいいと思うけどな。離れていてもクラッペさんのこと気にかけてくれてるんだね」
「“気にかける”というより監視に近いですかね……メツケ役なわけだし、ヘマやらかさないように見張ってるんですよ。離婚後、仕事を探す時も、わたしがいいなって思った仕事の職場環境や業務内容を事細かく聞いてきて、無理だとかダメとか言われてばっかりで……そんな時にたまたま白センの求人を見つけて、ここなら公共施設だし、コンソメが通ってるからってことで何とか認めてもらえたんです」
「すごく気力が要ることだね……」
「まあ、もともときちっとしてる人だから苦にはならなかったんでしょう。
「じゃあ、引っ越すまで長かったんだね」
「いや、出会ってから結婚まで半年くらいで……スピード婚でした」
「へえ……」
「早いですよね。あの頃は直感と勢いで何とかなると思ってたんです、お互いに。プロポーズは108本のバラの花束渡されたなあ……」
「わあ、ロマンチック……」
「通りががった人が拍手してくれましたよ…………」
後にも先にもない経験を思い出してわたしは小っ恥ずかしくなった。
「元旦那さんはクラッペさんの優しさに惹かれたんだね」
「優しさか……あの頃はそうだったかもしれません。でも、育児始まってからはそれどころじゃなくなってたから……」
「子供と一緒に過ごすって大変だもんね」
「経験が?」
「うん。ずっと昔、人間の女性と付き合ってた頃があったんだ。母子家庭で、2人の幼い子供育てながら働いてた。たまに子守させられてたけど、目を離すと何するかわからないし、モノをなげるとか自分にきつく当たられたりして……長く続かなかったよ」
「自分の子じゃないから叱るのもためらいますよね。わたしも、コンソメを迎えた頃はまだ3歳くらいで、イヤイヤ期末期だったので毎日キレっぱなしでしたよ。元夫は多忙で育児はほぼわたし任せだし……2人だけの時はもう少しゆったりのんびりできて、彼も茶目っ気あったのに……娘も一緒に暮らすようになってからだんだん余裕がなくなってきたみたいで……」
「実際、経験してみないとわからないことってあるよね」
「“子育ては大変”ってのは、ある程度予想はついてたと思うんですよ。本人も強い希望で子供迎えたのに、あまりにも手がかかるから、こんなはずじゃなかった感が強かったんでしょうね。それも大きくなって徐々に解消されていきましたけど……」
「いずれ独り立ちの時が来るからね」
「あまり考えたくないなあ…………母を必要としてくれる限りは一緒にいられたらなって思うんです。娘のことは大好きだし大切な存在だけど、ウキウクへ来たことは後悔する時もあって…………」
「ウクーが優遇されるから?」
「それもありますけど、自分って無力だなあって。メツケ役の力を借りないとウキウクでは生きていけないから……人間の移住者は皆同じで仕方ないことだけど、制約がある中でもウルリュウ先生みたいに、天職に出会って人生を存分に楽しめている人もいるし……そんな人を目の当たりにすると、わたしはこのままでいいのかって。どことなく不安を感じるんですよ。今はとにかく、娘のためにも強く生きないと、とは思ってるんですけどね……」
ふうと溜息をついたわたしはハッとリルさんの顔を見た。
「あっ、愚痴っぽくなってすみません……えっと、リルさんは、
「う~ん……むしろ、白に来て良かったなと思ってる。ここの人達は良い意味でドライだから人付き合いに悩まなくていいし、余計なことを考えずに穏やかに過ごせるんだ」
「わたしも……そうです。つかずはなれずって感じがいいですよね」
「橙にいた頃は、好意を寄せてくる人とのつながりは途切れることがなくて、嬉しい半面、嫌われたくないって思うあまり、自分の気持ちを素直に出せなくなって………皆に親切に優しくしたいって思い上がってたんだ。相手は時間が経てば忘れて離れていくのにね。それに、本当に大切にするべき人は別にいたのに、気付いた時は手遅れだった…………」
悲痛な面持ちの彼に、わたしがなんと言葉をかけようか迷っていると、
「あ、今はもう大丈夫だよ。客観的に自分を見られるようになってきてるから。ゆっくり前に向かって進むしかないっていうのはわかってる」
にこりと、明るい表情で言われ、
「それに、
その屈託ない笑顔に不意にわたしの胸が高鳴った。
(だめだめ!!これは“わたしだけ”ってことじゃないんだから……!!)
「あ、そ、そうなんですか…………」
「うん」
「…………………」
俯いて狼狽するわたしの頭を彼はごく自然に、よしよしと撫でた。
「えっ…………?」
「あっ、ごめん。つい……」
さっと手を退けた彼は困惑顔で謝った。
「い、いえ…………!!げ、元気づけてくれたんですよね……」
「うん……僕よりだいぶ年下なのにえらいなあって」
「人間ではもう中年期に入ってる歳です……心はずっと若いままでいたいって思ってるんですけどね」
「いくつになっても、若々しく、美しくありたいっていう思いを持ち続けるのは素敵なことだよ」
「美しくか……まあ、健康でいるためには、地道な努力の積み重ねが大事ですよね」
わたしはドキドキ感を悟られまいと必死に言葉を続けようとした。
「白センの先生達もみんな若くて元気だし……ハユキ先生やウルリュウ先生、親身になってくれる人達がいて助かってます」
「ウルリュウ先生は……ちょっとクセが強いけど」
「ウザい時ありますよね……」
「それは、う~ん…………良い先生だよ」
妙な間が明らかに「ウザい先生だ」と言っているようだった。
「何か困ったことあれば言ってくださいね……あ、わたしじゃなくても、他の先生とか、言いやすい人に……」
すると彼はふふっと笑った。
「それなら、クラッペさんに言うよ。優しいから」
「えっ、あ、ありがとうございます……昼休み会ったついでにでも……」
「うん。じゃあ、今日はこれからグループ活動だから、そろそろ行くね」
「はい。楽しんできてください」
颯爽と去って行く彼の後ろ姿を見ながらわたしは、
(はあ……頭なでなでの破壊力強すぎだよ…………)
と火照った両頬に両掌をぴったりくっつけて冷ましていた。
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