第51話

 弱い魔物なぞどこにもいない。それはヒトが勝手に”強弱“をつけているだけで、例えば、俺がアークベルトにけしかけたあの茶色の虫は、その基準に当てはめるのなら”弱い“部類に入るのだろう。

 実際、多くのヒトが、フェアリー族ですらあの虫に戦慄し、恐怖し、足をすくめさせる。

 このマッドモスキートにしろだ。


「でやぁ!」


 暗闇をヴェインの剣が一閃するが、マッドモスキートはそれをひらりとかわしてみせ、その触覚を右に左にと動かしてみせる。その動きにフェリカあたりが悲鳴を上げるかと思ったが、どうやらあいつからはマッドモスキートがよく見えないらしい。


「当たらない……! なんでっ」


 俺はだいぶん目が慣れ、ヴェインとマッドモスキートの動きがよく見えている。それはガレリアも同じなのか、フェリカを庇える位置に立ち直しつつ「ふふ」と小さく笑みを零した。


「見えてるなら助け舟でも出したらどうだ」

「あら? それは貴方もでしょう、ディアスちゃん」

「言っただろう。俺は師匠でも仲間でもないと。ヴェインが危険なら保護者として動きはするが、だからこそ、ある程度までは見ているつもりだ」


 ガレリアは俺の言葉に「あら」と意地悪く口の端を持ち上げ、


「保護者ならくらい見てあげたらどうかしら?」


と笑った。これでもかというほど睨みつけてやるが、これぐらいで引くような奴なら、そもそもこの旅に同行はしないだろう。だから俺は心底面倒だとばかりに息をひとつ吐ききってから、


「おい、リーフィ」

「何」


 それだけでリーフィは理解してくれたようで、すぐに「どれくらい」と手のひらをヴェインに向かってかざした。


「あんまり下げるな。ヴェインが倒れちまう」

「わかった」


 リーフィの意識が手のひらに集まり、それは白い光りとなって具現化されていく。次に手のひらを上に向け、その光を小さく集めると、


「リ・ダクション」


ともう片方の手を使い、指先で光を掬う仕草をした。それをヴェインに向かって左右に振る。


「あれっ、身体が、寒い……!?」


 ヴェインの息が荒くなっていく。身体は小さく震えだし、目は視点が定まっていない。


「おい、やりすぎだ」

「大丈夫。治す」

「そういう問題じゃあなくてだな……」


 リーフィはどうだとばかりに胸を張っている。それを咎めるのは気が引けたので「まぁいい」と頭をくしゃりと撫でてから、


「ヴェイン」


と頭に響かない程度の声量で呼んでやる。足元がふらつきながらも「う、うん」と答える辺り、まだやれるようだ。


「マッドモスキートの位置が見えるか?」

「え……。あ」


 ヴェインが改めて剣を構える。その切っ先が、真っ直ぐに標的を捉えた。


「なんでだろう。動きが、さっきよりにぶい、ような……」


 傍から見ればマッドモスキートの動きに変わりはない。ヴェインのほうが、多少なりとも早くなっただけにすぎない。


「頭を冷やせ。戦場では熱くなった奴から死んでいく」

「そう、なんだ……」

「まぁ、本来はこんな無理やりやることじゃあない。その感覚を忘れるな」


 熟練の傭兵なら、それこそ自分に寄ってきたマッドモスキートを一刀両断するだろうし、卓越した魔法士なら、火を使いもっと効率良く始末する。

 なかには、剣自体に油を塗り込み、それに火をつけぶん回す猛者もいると聞くが、生憎、そんな大道芸じみたことをヴェインが出来るとも思っていない。


「触覚を落とし反応を鈍らせるもよし。胴体を斬り捨てるもよし。羽根は呪術士どもが欲しがるからいい金にもなる。好きにしろ」

「好きにしろって言われても……っ」


 今ヴェインの身体は、熱でうなされた時のように気怠く、そして思考もままならないことだろう。それでも戦わなければならない時など、腐るほどあるのだ。


「ヴェイン」

「わかっ……てる、よ……!」


 ヴェインが床を蹴る。目標を見失っていたマッドモスキートは、眼前に迫ったヴェインに気づいた時には、既に胴体を真っ二つにされていた。緑色の体液が飛び散り、ヴェインだけでなく、天井と壁、床をも汚していく。


「やった……」


 息使いも荒いまま膝をつくヴェインを見、俺は本に触れていた手をそっと離した。

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