another view - さらなる視点

 加賀の豪商の家に生まれ、幼い時より重貞坊ちゃん、若旦那と甘やかされて育った私は苦労というものを知らなかった。誰もが羨む何不自由のない暮らしとは裏腹に、私の心にはポッカリと穴が開いていた。何をやっても満たされない心、私はその穴を埋めようと放蕩ほうとうの限りを尽くして日々過ごした。


 明治29年、とうとう父の堪忍袋の緒が切れた。勘当されて家を追い出され、北海道の地に屯田兵として送り出された。

 五町歩ごちょうぶ(※約5ヘクタール)の土地を与えられ、開墾した土地は五年ののちに自分のものになるという。

 もとより呉服店に未練などなかった。蝦夷えぞから北海道と名を変えて久しい。その土地に興味もあった。


 だが、北海道での暮らしは筆舌に尽くしがたいものだった。甘やかされて育った私を身を切る寒さが容赦なく襲う。くわの重さが身に沁みた。だが働かねば野垂れ死ぬしかない。

 私は鍬を振るう。


 ある日、私のもとに一人の女がかくまってほしいと泣きついてきた。名を鼎といった。聞けば、身売りされてこの地に送り込まれたのだという。奴隷同然の日々に耐えかねて、熊本から走ってきたと鼎は言った。

 明治の初めに始まった北海道開拓には、日本各地から多くの人々が名乗りをあげた。やがて人々は北海道で出身地の名を冠した地名をつけた。秋田、栃木、愛知、岡山、山口、熊本など枚挙まいきょいとまがない。私の暮らす加賀団体も同じである。

 追手はすぐそこまで迫っているのが見えた。面倒ごとはごめんだ。鼎をそのままつきだそうと思った。しかし、帰る場所のない鼎に自分を重ねた私は追手に向かって叫んだ。

「その女はあの山に走って逃げた。急げ!」

 追手の男たちは礼をいうと山へと走った。

 鼎は私に礼を言い、ご恩返しに身の回りの世話をさせて欲しいと懇願した。

 そして私は今日も鍬を振るう。

 潰れた手の豆がひどく痛む。


 やがて私は鼎に心惹かれるようになった。鼎もまた私を好いてくれている。心に空いていた穴が満たされていくのを感じた。暮らしは貧しいが、何でも手に入ったあの頃よりずっと幸せだ。鼎がそばにいてくれさえすれば、豆が潰れてただれた手のひらの痛みも、吹きすさぶ風の冷たさも感じなかった。

 そして私は今日も鍬を振るう。


 暫くして私たちの間に子ができた。弥太郎やたろうと名付けよう。心に空いた穴は完全に満たされた。しかし、幸せとは長く続かないものだ。鼎が病に臥せった。もともと丈夫ではないことに加えて出産という大仕事に身体が悲鳴をあげたのだ。私は無力な自分を呪った。衰えていく鼎に満足な食事さえ与えられない。私にできることはただ鍬を振るだけだ。手のひらの豆がまた痛み出した。

 私は今日も鍬を振るう。


 鼎はあっけなく死んでしまった。悲しむことはない。所詮人の命など綿々と続く時代の中ではたった一瞬の灯火に過ぎない。だが魂は永遠だ。墓を立ててやることはできなかったが、集落の人間から金を借りて鼎を荼毘だびに付した。姿形は変われど私は変わらず鼎を想い続ける。

 待っていろ鼎、いつか立派な墓を立ててやる。それまでここで我慢してくれ。私はそう言って、同じ集落の者たちが故郷を思い起こすよすがとして名付けた、加賀の一本松の根元に鼎を埋めた。近くに鼎が眠っている。忘形見の弥太郎もいる。

 私は今日も鍬を振るう。

 手のひらの皮はずいぶん厚くなった。


 ある日、私の家に一人の男がやってきた。その顔には見覚えがあった。鼎の追手だ。だが、こいつらは鼎を労働力としか見ていない。遺灰などに興味はないだろう。私は正直に死んだと答えた。だが甘かった。男は弥太郎に目を向けた。子どもは貴重な労働力だ。鼎は自分たちの労働者だ、そこから生まれた子どもも自分たちのものだとまくしたてた。

 弥太郎まで奪われるわけにはいかない。私は火鉢に刺してあった火箸を男に投げつけた。火箸に腕を焼かれて悶える男をやり過ごし、私は弥太郎を抱えて逃げた。鼎を掘り起こしている暇はない。すまない鼎、待っていろ。いつか必ず迎えにくる。

 この地に身寄りなどない。恥を忍んで私は加賀に帰った。


 勘当が解かれることはなかったが、父は私たちを迎え入れてくれた。理由はすぐにわかった。家督を継いだ弟の鑑三かんぞうとその妻の間に子ができなかったからだ。父は弥太郎を鑑三の実子ということにして、私には離れの地下で暮らすよう言い渡した。不義理を働いた息子を世間の目に晒したくなかったのだろう。私に許された外の世界は中庭だけだ。だがこれでいい。弥太郎はもう安心だ。幸いまだ物心もついていない。鑑三を父と慕って育ってくれ。私はたまにお前の元気な姿を見るだけで満足だ。


 座敷牢のような地下での暮らしは、書物を読み耽るだけだった。他にあるのは、おかしなからくりの箱だけだ。父が物珍しさから購入し、開かなくなってここに放り込んだのだろう。私は日がな一日干支の書かれた円盤を回し続けた。

 そんな暮らしをどれくらい続けただろう。ついにからくりの箱が開いた。だが、結局中には何も入っていない。今の私の心と同じだ。


 弥太郎は元気に育っていった。心残りは一本松に残した鼎である。もう私がその地を踏むことは叶わない。厳格な父や、その性格を色濃く受け継いだ鑑三が私の願いなど聞き入れるはずもない。


ゴホン


 咳と共に血を吐き出した。結核か。どうやら私も長くはない。何か良い方法はないかと思案する日々が続いた。そうだ、このからくりの箱に私の手記を残そう。干支の円盤の回し方は父たちに知られないよう暗号にしよう。私はサイコロを彫り、にかわで貼り付けた。


 子々孫々。いずれ子孫の中に私の想いを斟酌しんしゃくしてくれる者が現れるのではないだろうか。それまで私の魂はこの地下にとどまることとする。何百年、いや何千年かかっても構わない。だからどうかお願いだ。我が子孫よ、鼎を私の元に連れ帰ってはくれまいか。



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