森文

「あっくん、お待たせ」

 今日の日のためにドレスアップしたヒナはいつもと違う雰囲気でドキっとした。

「ちょっと、あんまりジロジロ見ないでよ。照れるじゃん」

「ああ、ごめん。じゃ、行こうか」

 こんな時に気の利いた褒め言葉をかけることができたらいいのだけど、何だか気恥ずかしい気持ちが先に立って口ごもってしまった。


 そのレストランは閑静な住宅街にあった。和モダンというものだろうか、エントランスの両脇に篝火かかりびを模した照明が雰囲気を盛り上げる。僕たちは『森文 restaurant Moribun』と書かれた暖簾のれんをくぐり受付へと進んだ。

「明壁様と松島様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」スタッフに案内されて僕らはジャズが流れる店の奥へと進んだ。

「やぁ信くん、よく来てくれたね」

「ご無沙汰してます」

「ヒナちゃんもしばらく見ないうちに女性の魅力に磨きがかかったんじゃないかな」

「やだーもう東さんたらお上手なんだから。あ、梢さんお久しぶりです。レストランオープンおめでとうございます。ホント凄くステキなお店ですね」

「ありがとう。ヒナちゃんも素敵よ」

「梢さんには負けますよー」

「さて、挨拶はこれくらいにしておこうか、さぁ二人とも座って」

 スタッフが引いた椅子に僕たちは腰掛ける。

「メニューはこれ、好きなのを選んでね」


 前菜 スモークサーモンのイクラ添え


 スープ ビシソワーズ


 魚料理 以下の中からお選び下さい

 A. 舌平目のムニエル

 B. オマールエビのテルミドール


 肉料理 以下の中からお選び下さい

 A. 鳩のグリル

 B. 国産牛のステーキ

 C. イベリコ豚のソテー


 パン


 デザート ザッハトルテ

 

 コーヒー または 紅茶


「プリフィックスって女性には嬉しいですね」とヒナ。

「プリフィックスって何?」

「あっくん知らないんだ。何種類かある中から好きな組み合わせを選べる方式よ」

「じゃあ僕はBとAで」

「あっくん決めるの早くない? んーと私はどうしようかな。鳩とかイベリコ豚とかどんなんか気になるけど」

「君たちはまだお酒は飲めないよね。ノンアルコールのスパークリングでいいかな?ソフトドリンクもあるけど」と東さんが聞く。

「僕はスパークリングでお願いします」

「私も、じゃああとBとBで」


 料理を待つ間、僕たちはお互いの近況や、双葉館での思い出話に花を咲かせた。


「スパークリングでございます」ウェイターがヒナと僕に給仕する。東さんと梢さんは白ワインを手に取る。

「それじゃ再会を祝して乾杯しましょ。いい?グラスは当てちゃダメよ持ち上げるだけ」

「そうなんですか?私いつもカチャンってしてました」

「それは良くないわ。私はそれをグラスの悲鳴って言ってる」

「そろそろ乾杯といこうか」

 一同グラスを掲げた。

 程なく、ウェイターが前菜を運んできた。フォークやナイフは苦手だけど、箸が用意されているのはありがたかった。

「美味しいです」

「ちょっと、あっくん食べるの早いよ。まずは目で楽しまなきゃ」

「そういう物なんだ、いや慣れてないもんだから」

「そんなに肩に力を入れなくてもいいわ、私は肩肘張らなくてもいいけど、ちょっとオシャレなレストランをコンセプトにしているの」

「何かいいですね、それ」と僕は答えた。

「でも信くん、これだけは覚えておいて、料亭とか割烹では男性が上座だけど、こういうところは女性が主役なの」

「女性が上座って事ですよね」と僕。

「そう、ウェイターもヒナちゃんから給仕したでしょ。男性はね、食べるスピードを女性に合わせないとダメ。早いと女性が焦っちゃうし、遅いと女性の方が食欲旺盛に見えちゃって恥ずかしいでしょ」

「よいか信よ。今の言葉をゆめゆめ忘れるでないぞ」とヒナがおどけて言う。

「末代まで伝えまする」と僕もそれに合わせ、一同笑いに包まれた。

 僕はその後もアドバイスに従い、ヒナの様子を伺いながら食事のスピードを調整した。メインを食べ終え、フォークとナイフを四時二十分の位置に揃えて置いた。そのタイミングを待っていたかのように東さんは口を開いた。

「さて、ここまでの感想を聞かせてもらえるかな?」

「凄くいいと思います。内装もおしゃれだし、料理も見た目だけじゃなくて美味しいし、ラフじゃないけど、特別感があるバランスが絶妙だと思います」とヒナが褒めちぎる。

「ありがとう。それは正に私が目指した形なの。分かってもらえてうれしわ。でも、気を使わないで遠慮なくクレームも言ってくれていいのよ」

「え、クレームなんて無いですよ」とヒナが驚いたそぶりで言う。

「クレームって言うのは企業にとってありがたいものなんだよ。それを元により良いものを提供しようと改善できるからね」と東さん。

「え、クレームが? でも文句とか苦情とか嫌じゃ無いですか? 私絶対カスタマーサービスなんて無理だと思うもん」

「クレームはもともと主張って意味で、苦情や文句って意味じゃないんだよ。それはコンプレイン。ありがたいのはクレームであってコンプレインじゃないと僕は思う。だけど日本企業の多くがそこを間違って解釈して、モンスターと呼ばれる客を増長させてるんだ」僕はヒナにそう説明した。

「ほう、僕の記憶のなかで君は英語が苦手だったと思ってたけど、よく知ってたね。そして確かに君の言うとおりだ。会社が大事にすべきは社員であってモンスターではないんだ」東さんは興味深そうに僕を見て言った。

「前に東さんに言われたことがきっかけで苦手を克服しようと思ったんです」

「そんなこと言ってたかな?」東さんは、そう言ってはぐらかした。

「さて、信くんの意見も聞かせてもらおうかな」

「僕はこのプリフィックスというものは諸刃の剣だと思います。確かに選べる楽しみがありますが、注文が偏ってしまうと食材の在庫管理が大変だと思います。特に鳩のようなジビエはどれだけ注文が入るか予測が困難でしょう。同じテーブルで別々の注文が入ると、同じタイミングで給仕するには、シェフの負担が大きいと思います。あと、料金設定はどうなってますか?」

「このコースで6000円よ。ドリンクは別料金ね。あとは大手レストラン紹介サイト『空海』に出して、そこからの予約は5000円にしようかと思っているの」

「僕は客層を保つには空海に出さない方が良いと思います。こんなことはあまり言いたくないんですけど、価格帯と言うのは客層に直結します。昔、一流ホテルがクーポンサイトに半額のプランを掲示しました。そしたら、おかしな客層がスタッフにいちゃもんをつけて謝罪や土下座を強要するトラブルに発展したんです。これではもともと利用していたお客は離れてしまいますし、そうでなくともそう言ったサイト利用者は通常価格では来てくれなくなると思います。それなら、クライアントの誕生日に招待状を送るとか、新規契約特典として招待するとかすれば客層のレベルを損なうことはないと思います。あ、すいません素人が生意気言って」

「そんなことないわ、信くんの言う通りだと思う。東にも同じこと言われたからね」

「2人ともありがとう。参考になったよ。さて、そろそろデザートといこうか」と東さんが右手を上げてウェイターに合図した。

 僕はそれに合わせて気になっていたことを尋ねた。

「東さん、今日の本当の目的は何ですか?」

 東さんは微笑みながら僕に問いかける。

「なぜそう思ったんだい?」

「多角的な意見が必要なら、前回のようにモニター募集の求人を出すと思うんです。専門家でもない僕たち二人に、早い方がいいと言ってたのは何か急ぎの用事でもあるのかなと」

「やっぱり君は興味深い。確かに本題があるんだけど、……そうだな、この店にはバーを併設している。デザートはそこで食べることができるから、そちらに場所を移そうか」

 そう言って東さんと梢さんは席を立った。

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