4話 不器用な手

 ある冬の日。

 

「ほんとうるさい!」


 夏木さんに怒られた。ここまで声を荒げたのは初めてのことで、いよいよ嫌われてしまったんだと謝る準備に切り替えたところだ。

 

「春斗くん、なにしたの」


 彼がいつもの調子で訊いてきた。なにをしたのと言われましても。


「落とした消しゴムを拾って、それを渡したらうるさいって」

「なにか言った?」

「……手というか指がボロボロだったから、大丈夫か、とは言ったな」

「それじゃない?」

「それかも」


 指先がやや触れて、ちらっと見えた手指が傷ついているのが見えた。絆創膏までしてあったくらいだ。

 

 あまり人の手を見たり触ったりする機会はないから確証はないけど、夏木さんの手は硬かった。


「なあ、俺の手って硬いよな」

「そうだね。バレーやってると皮が厚く丈夫になるのかな」

「冬なんかは特に乾燥してひび割れがひどくてな」


 夏木さんもそんな感じだった。別にスポーツをやってるわけじゃないだろうけど。


 とりあえず、放課後までには謝ろう。


 

 朝にそんなことがあったので、一日の授業がいつも以上に長く感じた。普段は寝てしまう授業も起きていたし、考え事が止まなかった。

 

「あの、夏木さん。ちょっといいかな」


 相変わらず、夏木さんはむっと睨みつけるような目でこちらを見ていた。


「なに。わたし忙しいんだけど」

「今朝のことで謝りたくて。その、手のことを言って傷つけてしまったのかなと」


 そう言うと、やっぱり手を後ろに回して隠した。


「それはもういいよ。別に、大丈夫だから」

「いや、でもごめん! デリカシーがなってなかった。ほんと、ごめん!」


 教室にはもう誰も残っていなかった。


 だからかはわからない。夏木さんは手袋をした手を俺の肩に置いた。


「なんでそこまでわたしに執着してくるの」


 顔を上げるよう促される。


「い、いや、なんというか」


 怒っているというよりは真剣な目だった。だから、それにはちゃんと答えるべきだと思った。


「あなたのことが好きだからです」

「あ、え……?」

「夏木さんのことが好きだから、あれだけ話しかけてた。嫌だったら土下座して謝ろうとも思ってた」


 思ったよりも冷静な自分にびっくりしている。


「あんなにきつい対応してたのに? どうして、そんな」

「あなたの笑顔が見たかったから」

「え……?」

「あなたが一度だけ見せた、小さな男の子に見せたあの笑顔をもう一度見たかった。あんなに素敵なのにもったいないと思ったんだ」


 無理やりはよくなかったかもしれない。少し強引すぎた。


「付き合ってくださいとは言わない。けど、これが俺の気持ちです」


 夏木さんはどんな顔をしてるのだろう。言い切ってから、俺は怖くて直視出来なかった。

 

 バレーの試合よりも緊張した。


「わたしも好きです、とは言えない。ごめんなさい」

「うん」

「でも、嬉しいなあ……」


 声に震えを感じた。嬉しい? ありがとう? 意味がわからない。

 

 じゃあなんで。そう思って夏木さんのことを再び見た。そうしたら。


「笑ってる? いや、泣いてる……?」


 なにもわからない。でもただ今はただ落ち着いてもらうために一度椅子に座ってもらうことにした。

 

 夏木さんのことはなにも知らない。悔しいことにどれだけアタックしてもなにも教えてもらえなかった。

 

 一蹴されて、うるさいと吐き捨てられて、たったそれだけ。別に思い入れのある出来事はなにもない。


「あの、ごめん。そんなつもりはなかった」

「泣いたのはわたしの勝手な事情。君はなにも悪くないよ」


 思えば、夏木さんとこうやって普通に会話をするのは初めてな気がする。表情はいつもより少しだけ柔らかかった。


「よかったらその事情を聞かせてもらえないかな」


 俺なんかがとは思ったけど、好きな人の事情くらいは聞いておきたかった。なにか出来ることがあるなら力になりたい。


「重いよ」

「どれくらい?」

「バレーの決勝戦の最後のサーブくらい」

「それは重いな。でも俺なら絶対決める。自信がある」

「そっか」


 軽快な話し振りからは一変して、語り口は夏木さんが言ったように重たかった。


「うち貧乏なんだよ。片親で、弟が1人いて、かなりギリギリの生活してる。だからね、勉強を頑張らないといけないんだよね」

「うん」

「大学に入って一流の企業に就職して、お母さんと弟に楽させてあげないといけない。そのために猛勉強してるし、放課後だって時間を無駄にしない……友達も作らない」


 ああ、あの誰に対してもきつい物言いはそういうことだったのか。


「中学の頃はね、普通に友達作ってたんだ。でもさ、やっぱり付き合いじゃないけど放課後や休日に遊びに行ったりしないといけなかったの。一回行かなかっただけで口利いてくれないこともあったしね」

「それが邪魔になると思ったのか」

「うん。わたしはお金を稼げればそれでいいの。友達も恋人もいらない」


 じゃあなんで泣いたんだ。嬉しいなんて言ったんだ。


「じゃあ、俺が稼ぐよ」

「いやいや。無理でしょ。成績悪いし元気しか取り柄ないのに養ってくれるの」

「バレーボールの選手になる。そんで、夏木さんの家を幸せにする。絶対だ」


 自分でもなに言ってるんだろうと思った。同情して善人ぶってるだけじゃないかと。


「本気で言ってんの」

「当然」

「馬鹿じゃないの。そんなプロになるなんて簡単なことじゃないでしょ。わたしと付き合うために適当言ってるんじゃないよね。見損なったよ」

「俺は本気。だからこの場で約束する。俺は、プロになって夏木さんに裕福な暮らしをさせる。俺はあなたに笑顔になってほしいんだ」


 夢物語。これで上手くいくのはフィクションの世界だけの話。そんなことはわかっているけど、この気持ちは本心だ。


「バレーボールで日本一になる! そしたらまた、あなたに告白させてほしい」


 断ってくれても構わない。それでも俺は、そうすると決めた。


「わかった。期待しないで待ってる」

「うん。それでも俺はやるよ」 

 

 その日以来、夏木さんとの会話はなかった。

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