9. エントランスで彼に追い付く

 エントランスで彼に追い付く。ルカレッリは頭を抱えて天井を見上げており、嗚咽にも似た呻き声を漏らして立っていた。やはり連れていた亡霊の姿はなく、たったひとりで佇むその姿は、妙に孤独を意識させた。


「あ……あ……」


 垂れ流される言葉が、意味を持つ。


「嗚呼……ほら、いないじゃないか……そんな少女は存在していないんだ……リリィなんて子はいやしないんだよ、母さん」


 ペテロがエントランスに踏み込むと同時に、ルカレッリはこちらを振り返った。その瞳から狂気の影は薄れ、今はもう、ペテロの姿をきちんと認識している。


「ドットーレ……」

「こんな夜更けに何をしてらっしゃるんですか、フラテッロ。お休みにならなくてよろしいんですか?」


 落ち着き払った声に、むしろ怖気が立つようだった。ペテロはごくりと唾を飲み、怯える自分を奮い立たせた。


「やはりあなたは、リリィのことを知っているんですね」


 ルカレッリは黙っている。ただ、深い悲しみがその目に過った。


「教えてください。あなたは何を隠しているんですか。きっとあなたはこの精神病棟に住む悪しきものの正体を知っているはずだ。あなたはそれを知っていて、あえてわたしたちに隠しているのではないですか」


 いや、そうではない。

 ペテロは拳を握り締めた。


「お聞きします、ドットーレ・ルカレッリ。この病棟に巣食う悪しきものとは、他ならぬあなた自身なのではないですか」


 タダイの、そしてトマゾの死体に工作をすることも、ルカレッリならばできたはずだ。

 この病棟は半分修道院の敷地内に立っている。顔の知れた彼ならば、修道院を歩いていても咎められない。どこかひと気のない場所でタダイに首を吊るよう迫り、死体を僧房に運び入れることも可能だったし、眠っているトマゾの顔面に十字架を突き立てることだってできた。被害者である二人共に近しく、彼らの精神状態を最も把握できていたのはルカレッリだ。彼ならば。

 物理的な証拠と言われれば、ペテロには思いつかない。しかし、たった今見た亡霊たちの存在が、彼にこの推理をもっともなものとして信じ込ませていた。


 緊張が走る。冷えた空気が僧衣の裾から這い上り、全身から温度を奪っていった。


「……ああ、あなたもそう思われますか」


 奇妙な返答だった。ペテロは黙って続きを待つ。

 ルカレッリは悩ましげに眉を寄せた。


「違うと言ってほしかったのに。だって、僕は間違ったことは言っていないんですよ。リリィなんて存在しない。そう、正しいことを言っただけなのに。だから、僕のせいじゃないんです。僕は正しいことを言ったんだから。正しいことを言った僕が悪いわけがない。つまり僕のせいじゃない」

「……え?」


 どういう意味かわからない。困惑するペテロをよそに、ルカレッリはひとり夢遊するように言葉を紡いでいった。


「流産であると聞かされていた妹の死が、中絶であることは明らかでした。直前にあった不自然な産婆の訪問。母の異常な取り乱し方。まだ幼い弟は騙せても、すでに二十歳近い年になっていた僕のことは騙せませんでした。うちは決して裕福な方ではなかったので、やむを得ない苦渋の決断だったのでしょう……母は自分を責め続け、ついには心を壊してしまいました」


 中絶であると聞くと、アダルジーザの強迫観念にも納得がいった。自分は罪を犯した悪人であり、罰を受けなければならない――彼女の思い込み、彼女の思う「罪」とは、お腹に宿った子の命を奪ったことを指していたのだ。


「聖バシリオに入院してしばらく経ったある日、突然母が『リリィ』という少女について語り出しました。自分の娘として。居もしない娘の話を嬉々として語るようになったのです。そのことについて、はじめは痛ましく思いながらも、僕も弟も傍観していました。リリィの話をすることは少なからず母の心を慰めたようで、母の自傷行為も以前に比べて減っていたからです」


 一瞬懐かしむように緩んだルカレッリの顔が、再び苦悶に歪む。彼は前髪を握り締め、見えもしない少女の幻影を睨んだ。


「だけど、結局僕は耐えられなかった。存在しないはずの妹が、母の中で日に日に具現化していく。弟まで一緒になって話を合わせているのを見ていると、妹は死んだ――生まれていないと理解している僕の方がおかしいんじゃないかと思うようになった。怖かった……怖かったんです。このままでは弟も母さんみたいになってしまう。このままでは、僕自身もおかしくなってしまうと、怖かった」


 恐怖に駆られた若き日のルカレッリは、母の幻想を打ち砕くことを選んだ。

 妄想の中に安らぎを見出した母に、現実を突き付けたのである。


「リリィなんて存在しない――僕は母に言いました。僕らに妹なんていない。だって、母さんが堕ろしたんだから。僕は母に、そう言ったんです」


 アダルジーザはその言葉を受け止めたらしい。はじめは激しく反抗したが、翌日からは一切リリィのことを口にしなくなった。


 そして、運命の日が訪れる。


 ルカレッリは弟のリオネッロと共に母の見舞いに行った。いつもと変わらぬ風景。母は塞ぎ込んでいたけれど、特に暴れたりすることもなく、いつもと同じように息子たちに接していた。だから、彼も何事もなく、いつもと同じように病棟を後にした。


「病棟から火が出たと聞いたのは、その夜のことでした。母の訃報を聞き、まず安堵してしまった自分に気が付きました。もう病んだ母を見なくて済む。もう病んだ母に恐怖しなくて済む。そんなことを考えた自分に、罪悪感も抱きましたが。それでもその時は、自分の身の方が大事だった」


 罪の意識が決定的になったのは、弟がしたことを知ってからだった。


「弟が白状したんです。『あの日、母さんに頼まれてマッチを差し入れてしまった』と。死体を見せてもらったうえでの推測になりますが、どうやら母はシーツを紐にして首を吊ったようです。同時にシーツに火を放ち、縊死した自分の無残な死体が人に見られないようにしたのでしょう」


 ルカレッリはペテロに向かって微笑んだ。感情の欠けた虚ろな笑みで。


「母は大勢の患者たちを巻き添えにして死にました――ねえ、フラテッロ。どう思います? 母の死は、患者たちの死は、僕のせいだと思いますか? 僕がリリィという幻想を打ち砕いたからこそ、母は自殺に至ったんですから。やっぱり僕がすべての元凶であると、あなたもそうおっしゃいますか?」

「そんな……ドットーレ、そんなことは……」


 ない、と言ってやりたかった。ところが、喉は乾いて貼り付き、ペテロは思うように声を出すことができなかった。何か別の大いなる意思が、彼にそのことを禁じたかのように。

 ルカレッリは微笑を浮かべたまま、ゆっくりと自身の頬に爪を立てた。


「ねえ、フラ・ペテロ。リリィなんて存在しないんです。存在してはいけないんです。僕は間違ったことは言っていないんだから。リリィなんて少女が存在したら、僕が間違ったことを言ったことになってしまうじゃないですか。僕は間違っていません。僕のせいじゃありません。ねえ、ペテロ。そうでしょう? そうだと言ってください、ねえ」


 ルカレッリは。

 頬に赤い引っ掻き傷を作ると、その手をそのままポケットに下ろした。取り出したのはマッチ箱。マッチを擦って、火を点ける。


「僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪く――嗚呼、違う。わかってる。わかってるよ、母さん、ごめんね」


 炎がルカレッリの足元に落ちていく。それはズボンの裾を掠め、ズボンに小さな火を点けた。ルカレッリはそれに動じることもなく、もうひとつマッチに火を点ける。落とす。火を点ける。落とす。

 大粒の涙がルカレッリの目から零れた。その表情は途方に暮れた少年のようで、ただ茫然とペテロを通り越した何かを見ている。


「――僕が、悪いんですよね。すべては、僕の、罪だ」


 炎が燃え上がる。

 ペテロは彼に駆け寄ろうとしたけれど、なぜか体は硬直して動くことができなかった。


 小さかった炎は見る見るうちに大きくなり、ルカレッリの全身を包み込んだ。肉の焦げる臭い。生理的嫌悪を催す悪臭が立ち上った。彼は大きく口を開け、苦痛の叫び声を上げた。

 目の前で、ルカレッリの体が燃えていく。

 その事実に気が付き、ようやくペテロの体が動いた。


「ドットーレ・ルカレッリ!」


 急いで僧衣を脱ぎ捨て、ルカレッリの体に打ち据える。叩いて火を消そうと思ったが、いくらやっても火は衰えなかった。それどころか、炎はますます燃え広がっていく。ルカレッリの絶叫は耳を突き刺さんばかりになり、夜の静寂を切り裂いた。

 奇妙なことに、炎はペテロには燃え移らなかった。立ち尽くすルカレッリだけが炎に呑まれている。衣服は焼け落ち、皮膚が剥がれ、膨張した表皮が割れて暗い色の肉が露出した。それもまた炭に変わる。常識ではありえない速さで、炎はルカレッリから人の形を奪っていった。


 いつしかペテロも絶叫していた。涙していた。目の前で理不尽に命を奪われていくルカレッリを見ながら、為す術のないことに泣いていた。


 やがて、ひとりの男が黒焦げの塊になった頃。

 炎ははじめから何もなかったかのように、鎮火した。

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