8. 真っ暗闇の中で


 真っ暗闇の中で、ペテロはただ全身を強張らせて横たわっていた。布団の隙間から夜気が忍び込んで来ていたけれど、カーテンを閉める気にはなれなかった。沈黙は煩いほどに耳元で叫び、鼓動が打ち付けるたびに目が開いた。眠気は訪れそうにない。


 閉じた瞼の裏側には、これまでの様々な瞬間が繰り返されていた。真面目な人柄の滲み出たトマゾ修道士の文字。目をかっ開いてこちらを追及するルカレッリの顔。デルフィーナの瞳。シモーネ修道司祭が柔和な顔を歪めて彼を心配している。


 思考はさらに遡り、いつしか修道院の門を叩く前のことを思い出していた。

 ペテロは孤児だ。気が付いた時には孤児院にいて、修道士たちに世話をされていた。読み書きは聖書で覚えた。日々の礼拝は欠かさず、聖誕祭ナタレ復活祭パスクワを祝うことに何の疑問も抱かなかった。

 自分は決して信心深い方ではない。ただ、それ以外の道を知らなかっただけだ。

 だからこそ、ペテロは悪魔サタンの存在に懐疑的であり、同時にリリィのような異端の怪異に寛容だった。亡霊だって認めよう。彼にとって、すべての超常現象は信仰と同じく神秘であった。


 むかし、孤児院で幽霊を見たと言って怒られたことがある。結局それは、木で首を括った女性の遺体に過ぎなかった。宙に浮いたその姿を亡霊と見間違えたのだ。

 しかし、今だからこそペテロは確信している――あれは絶対にただの遺体などではなかった。遺体であればこちらを向いて笑ったりはしないし、バタバタと不自然に手足を動かしもしない。あれは絶対に、人が知覚してはならないものだった。


 泣き女はどうだろう。思考は自然と現在のことに戻ってくる。

 トマゾの記録を読む限り、泣き女もまた首を吊った亡霊のようだった。はたして本物の亡霊なのか。それとも、何かもっと恐ろしい怪物なのだろうか――……。


 不意に、ペテロは我に返った。

 何事かと考えて、扉が軋む音を聞いたのだと思い当たる。


 ――来た。


 廊下から忍び込んだ冷気が、シーツを這い上がってきている。耳を澄ませなければ気が付かないほど微かな足音。それを上書きする、ズル、ズル、という何かを引きずったような音。


 泣き女だ。


 全身から汗が噴き出した。両手の指先が凍り付く。呼吸が浅くなり、咄嗟に目を固く瞑った。

 早鐘のような心音を聞きながら、一分。二分。待った。いつの間にかズルズルという音は消えていた。心音以外、何の音もしない。

 唐突に訪れた沈黙に、ペテロは唾を飲み込んだ。泣き女はどこに行ったんだ? もう部屋を立ち去ったのか。それとも、ただ立ち尽くしているだけなのか。立ち尽くしているとしたら、どこで。


 見なければ。見たくない。見なければならない。どうしても。そのために来たのだ。恐ろしいけれど。真実を。知るために。


 息を止めた。

 目を開ける。

 布団を勢いよく、引き下げた。


「ひっ――……!」


 音にもなりきれない悲鳴が、喉の奥を掠めて行った。

 眼前に顔があった。それが見たことのある顔だと気が付いたのは、数呼吸遅れてからだった。

 もみあげまで続いた赤い顎鬚。彼は歯を食い縛っており、爛々と輝く双眸に狂気が宿っていた。


 エラルド・ルカレッリ。


 けれど、彼に昼間の面影はなく、目の前にしているのが患者ではなくペテロであることすら、認識できていないようだった。


 背後に続く影に気付き、ペテロはゆっくりと視線を移す。そこには病室の外まで続く長い列ができていた。体の一部がひしゃげ、伸び、歪んだ亡霊。皆一様に紐や布で首を縛られ、囚人よろしくルカレッリの後ろに並んでいる。誰もが苦悶の表情で痛みを訴え、または声なき嗚咽を零していた。


 その異様な光景に言葉を失っていると。


「――だ」


 ぽつり、と。

 ルカレッリの唇が動いた。


「……え?」


 ペテロが思わず耳をそばだてた時。ルカレッリは胸を天井に向け、大きく口を開けて絶叫した。


「悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ、悪、魔、だ、悪――ッ」


 振り子のように勢いよく戻って来た顔面は、狂気的な恐怖が貼り付いていた。

 両腕がペテロの首へ伸びてきた。恐怖のために反応が遅れ、ペテロはその首を掴まれてしまう。親指が喉笛に掛かり、嫌な音を立てて絞め上げた。


「やめっ……あぁっ、が……」


 必死で絞める腕を掻き毟る。だが、狂人の腕は緩むどころか力を増し、ペテロをベッドの上から引き摺り下ろした。シーツに絡め取られ、ますます身動きが取れなくなる。

 苦しさが痛みを超え、脳天まで達した瞬間、ペテロは自身が意識を手放すのを感じた。ふわりと浮くような感覚に襲われ、嗚呼、これが死というものかと、妙に納得している自分に気付く。飛び出しかけた目玉では、もはや何者も映すことはできなかった。


 ――白い少女を除いては。


 いつの間にか、傍らに少女が立っていた。少女が手を伸ばし、ルカレッリの腕に触れる。

 そこでペテロは解放された。

 地面に手をつき、激しく咳込む。滲んだ視界は激しく揺れ、喉には胃液の酸味が広がっていた。頭がガンガンと痛む――けれど、ペテロは立ち上がらなければならなかった。

 ルカレッリが踵を返す。その視線の先には、あの白いワンピースの少女が。


「リリィ!」


 自然と口から零れ出た。それが彼女の名前だと確信していた。そして、彼女が自分を助けるために現れたことも。


 亡霊たちは消えていた。ルカレッリの後ろ姿が廊下へと吸い込まれていく。ペテロは口を拭うと、やっとのことで立ち上がった。

 廊下に出る。ルカレッリは速足で進んでいた。ペテロはふらつく体を壁に預け、半ば寄り掛かるようにその後を追った。

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