7. 病棟の火災といえば
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病棟の火災といえば、ひとつ思い出すことがある。トマゾ修道士による、リリィのエピソードだ。 無邪気に話す少女の噂話の中に、病棟の移転の話があったはずだ。
ペテロは深く考え込み、僧房の壁を睨んだ。狭く簡素な部屋には物がなく、窓もない。調度品といえば壁に掛けられた磔刑像のみで、入院患者の病棟よりも寂しい部屋であった。
机の抽斗からトマゾ修道士の日誌を取り出す。何度も読み込んだ日誌には折れ目が付いている。その中から、ルカレッリによってエピソード三と名打たれたページを開いた。
「あった。病棟の移転……」
食い入るように読み直す。目新しい情報はなかったが、改めて読み直すことで初見とは違う印象を抱くことができた。
もしも本当に火災の出火元がアダルジーザの病室であり、リリィがそのことを知っていたのだとしたら。人ではないこの少女は、いったい何を伝えようとしていたのであろうか。
そもそも、なぜリリィの噂話はこの三つなのだろう。トマゾの書くリリィとの関係が真実であったとするならば、二人はもっと多くの時間を一緒に過ごしていたはずだ。リリィの語る噂話は他にも沢山あったはずで、それならなぜ、トマゾはこの三つの話を記録に残そうとしたのか。
その理由に悩んでいると、ふと光明が差した。
「……違う。トマゾ修道士が選んだんじゃない。リリィがこの三つの話を書かせたんだ」
発想の転換。そうだ。リリィは日誌の中でしか存在できない。トマゾ修道士が実際にリリィの姿を見ることができたのか、それともそう思い込まされていただけなのかはさて置いて、少なくとも
改めて、読む。
この三つの噂話にはリリィが伝えたいことが込められているはずだ。その視点を持って、読む。
移転の話はこれでわかった。ルカレッリの母の関与について。そして、存在しないはずの病棟の話。こちらはトマゾ修道士が書いている通りであり、リリィとトマゾがどこで会っていたのかという問題のヒントにもなっていた。リリィの話す「あっちの世界」とは、すなわち狂気の世界であったのだろう。
問題なのは、一つ目の噂話だ。
首を吊った女らしき霊が、夜な夜な病室を訪れるという話。その顔を見てしまった者は、泣き女の絶叫によって発狂し、死に至る。どこにでもある怪談話に思えるが。
ペテロは色々な角度からこの話を検討してみたが、やはり手掛かりは得られなかった。新しい解釈となりそうなアイデアも降りてこない。彼は苛々と頭を掻いた。
「だめだ、わからないや」
行き詰まった時は、誰かに助言を求めるべきだ。ペテロは日誌の該当するページだけを懐に入れ、僧房から出た。
いつの間にか日が暮れていた。外気が肌を刺す。暦上ではそろそろ初夏と呼ぶべきだけれど、太陽が顔を隠せば、あっという間に気温が下がる。無意識に二の腕を抱いた。
またしても夜の礼拝をすっぽかしてしまった。夢中になると時間を忘れてしまう、ペテロの悪い癖である。本当ならばシモーネ修道司祭に助言を求めに行きたいけれど、それもまた明日にするしかないだろう。
それでもまあ、夜風に当たれば名案が閃くかもしれない。ペテロは夜の散歩に向かおうと、回廊から中庭に足を踏み出した。そこで、ハッと顔を上げた。
月が高く昇っていた。満月は昨日だった。まん丸から少し欠けただけの月は白く輝いて、明るく地表を照らしている。
「月の、明るい夜……」
『泣き女は月の明るい晩にしか現れないのよ。そして、一部屋ずつ病室を回って、患者の顔を確かめようとするの』
確か、日誌ではリリィがそう言っていた。
ペテロは速足になっていた。向かうは聖バシリオ精神病棟。噂話の真意がわからないのなら、直接この目で確かめればいい。時刻もちょうどいいはずだ。今ならば、泣き女に会えるかもしれない。
精神病棟は修道院の敷地に半分食い込んだ立地となっているが、やはりと言うか当然と言うか、いつもペテロが出入りしている裏口の鍵は掛かっていた。仕方がないので、修道院の敷地から出て表へ回り込むことにする。
当然ながら正面玄関も閉まっていたが、ペテロの目的はそこではなかった。窓の数を数えながら、病棟に沿って歩く。根拠なんてないにも関わらず、彼には目指す場所がわかっていた。そこに行けば、万事解決するという予感があった。
目が合った。
硝子越しに、橙の散った茶色い目が彼を見据えている。
ペテロは周囲を確認してから、その窓へと近付いて行った。
「デルフィーナ……」
静かに窓が開かれる。デルフィーナ・インセーニョはくっくっと笑った。
「来ると思ってたよ。お入り」
デルフィーナが下がる。ペテロは窓枠に足を掛けると、室内へ侵入した。手早く僧衣を整えて、彼女に向かって頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいさ。そのために、窓に格子がない部屋を頼んだんだからね」
デルフィーナは患者として入院しているわけではないからか、そのあたりの融通は利かせてもらっているようだった。
明かりは点いていないが、月光によって部屋の中が見渡せた。デルフィーナは床に就かずにペテロを待っていたのだろう。ベッドに乱れたところはなく、ちょうどひとり分、座っていたらしい凹みができていた。
「それじゃ、あたしは出て行こうかね」
「いいんですか?」
「そのために来たんだろう?」
ペテロは内心驚いたが、すぐに納得した。この魔女はすべてを見通しているのだ。ペテロがここに何をしに来たのかなんて、とっくに知っている。
「処置室がいいと思います。一応横になれる台もあるし、そこなら用がなければ誰も入りませんから」
「そうだね。じゃあ、事が済んだら迎えに来ておくれ」
デルフィーナは扉から廊下へ出て行った。
部屋を見回し、ひと呼吸吐く。咄嗟に出てきてしまったけれど、改めて自分のやろうとしていることを振り返り、全身に緊張が広がっていくのを感じた。
ベッドに入る。布団を頭まで引き上げた。デルフィーナの香水なのか体臭なのか、ローズマリーにスパイスの混じった香りが彼を包んだ。
ここで、朝まで。
泣き女を待つ。
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